第十二章 揺るぎのないわたし
美由紀はひとり、美容室の鏡の前に座っていた。
ガラス越しの外は、すっかり春の陽気で、人々の服装も軽やかになっている。
でも彼女の心には、静かな緊張があった。
「イメチェン、ですか?」
スタイリストの女性が優しく微笑んだ。
「はい……ちょっと、変わりたくて」
「わかりました。じゃあ、美由紀さんに似合う春の髪型、提案させてくださいね」
その名前を呼ばれて、ふと胸があたたかくなる。
――美由紀。
この名前を自分以外の誰かに自然に呼ばれることに、少しずつ慣れてきた。
それは、過去を完全に忘れるということではなく、“今のわたし”を選び続けるという行為そのものだった。
鏡の中の自分は、まだ時々不安げに見える。
けれど、その瞳の奥に灯った光は、もう誰にも消せなかった。
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夜。
帰宅すると、日向がダイニングにキャンドルを灯していた。
まるで特別な夜のように。
「……なにこれ?」
「サプライズのつもりだったけど、ちょっと照れるね」
彼は首の後ろをかきながら、小さな箱を差し出した。
「開けてみて」
美由紀はそっと箱を開けた。
中には、シルバーのネックレス。
プレートには小さく、でも確かにこう刻まれていた。
Miyuki
名前。
それは、過去の自分がたどり着いた“いま”の証だった。
「……これ、すごくうれしい。……ほんとに、ありがとう」
「君が君でいるためのもの。俺にとっての“美由紀さん”を、ちゃんと形にしたくて」
その晩、彼女はネックレスをつけたまま眠った。
まるで、その名前を抱きしめるように。
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夢の中。
彼女は雪が積もった小道を、ひとり歩いていた。
そこには「てつ」だった頃の彼女がいた。
無表情で、寒さに震えるように歩く影。
でもその隣を、今の美由紀がそっと歩いていた。
ふたりの影が、ゆっくり重なる。
彼女はその姿に微笑んだ。
「大丈夫、もう迷わない。だってわたしは――」
目が覚めたとき、春の陽射しがカーテン越しに差し込んでいた。
胸元のネックレスが、そっと温もりを伝えてくれる。
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もう、誰かの言葉に揺れなくてもいい。
もう、過去に引き戻されなくてもいい。
彼女は、彼女自身の足で立っていた。
名前が、それを証明してくれていた。