第十一章 夜が明けるころ
冬の名残が町の片隅にまだ残る早朝、美由紀は静かに目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、部屋の輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。
となりには、日向の寝息。
彼の存在は、日常の風景の一部になりつつあった。
でも、それは“慣れ”ではなく、“選びつづける”という静かな意思の積み重ねだった。
美由紀はベッドからそっと起き出し、リビングの窓辺へと歩く。
まだ世界が動き出す前の、透明な時間。
そのなかに佇むことが、彼女にとって何より贅沢だった。
手にはあのミモザの一輪。
鏡の前に立ち、そっとそれを胸に当てる。
「おはよう、美由紀」
誰かの声ではない。
自分自身の声で、名前を呼ぶ。
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日向は寝ぼけた顔でキッチンにやってきた。
「……起きてたんだ」
「うん、ちょっとだけ早く目が覚めちゃって。静かな朝が好きなの」
彼女が微笑むと、彼は眠たげなまま、コーヒーを淹れ始める。
「……この前のこと、考えてた」
「この前?」
「“てつ”のこと、話してくれた夜のこと」
彼は、コーヒーの香りとともに、慎重に言葉を選ぶ。
「俺ね、どこかで、“てつ”という名前を知らないままでいたいと思ってたのかもしれない。
美由紀さんの“痛み”や“迷い”に触れるのが、怖かった」
彼女は静かにうなずく。
「うん、わかる。私だって、自分の過去に触れられるのは、いまでもどこか痛い。
でも、もう隠すために美由紀になってるわけじゃない。
“わたし”として生きるために、あの名前があったって思えるようになったの」
日向は彼女の手をとり、小さく握った。
「ありがとう。君の過去を聞いて、今の君がもっと好きになった」
その言葉に、美由紀は思わず笑ってしまった。
「言葉にすると、すごく……照れるよね」
「うん。でも、夜が明ける前に言っておきたかった。
君の過去も未来も、ちゃんと愛していきたいって」
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それは特別な言葉ではなかった。
けれどその朝、彼女の世界は少しずつ明るくなっていった。
まるで夜が明けていくように。