第十章 春が来る前に
三月。
まだ肌寒さの残る風が頬をかすめるけれど、木々の芽は確かに膨らみはじめていた。
美由紀は、いつものカフェのテラス席でひとり、紅茶の湯気を見つめていた。
白いカップを包む指先に、自分の爪に塗った淡いピンクが映える。
その色が、何かを確かめるように、ゆっくりと彼女の中に染みこんでいく。
「もうすぐ、春が来るんだな」
ひとり言のように呟いたとき、聞き慣れた声が背後から届いた。
「春、好き?」
振り返ると、日向が小さな紙袋を片手に立っていた。
「……うん、春は好き。ちょっとだけ、寂しくて、でも優しいから」
「それ、君らしいね」
彼はそう言って、隣に腰を下ろすと、紙袋の中からミモザの花束を取り出した。
ふわりと広がる黄色の香りに、美由紀の目が大きく見開かれる。
「これ、ひなまつり近いから、女の子に渡すのがフランスでは習慣なんだって。……ちょっと照れるけど、受け取ってくれる?」
彼女はしばらく言葉を探すように沈黙し――そっと微笑んで、花束を受け取った。
「ありがとう。ほんとうに……うれしい」
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その夜、美由紀はミモザを一輪、鏡の前に飾った。
自分の輪郭が、そこにある光とともに、少しずつ柔らかく映っていた。
「女性として」扱われることが、かつてはどこか演じているようで苦しかった。
でも今は、その「まなざし」を、少しだけ肯定できるようになっていた。
日向の存在は、彼女にとって“恋人”というだけではなかった。
不安や揺らぎに触れたとき、声に出して確かめ合える「居場所」でもあった。
けれど、その優しさにすがりすぎたくはなかった。
美由紀はミモザに触れながら、自分に問いかけた。
「私は、わたしであり続けたい。たとえ誰かの傍にいなくても」
それは決意というより、小さな祈りのようなものだった。
けれどその夜、日向から届いた短いメッセージは、その祈りにそっと答えをくれた。
「君が何者であっても、俺は君の隣にいたいと思ってる。春が来ても、それは変わらないから」
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春が来る前の夜に、
ふたりの絆は、ひとつ名前のいらない光を得た。