第一章 昼下がりの偶然
いつものカフェに入ったのは、ただなんとなく、だった。
雨上がりの午後、街のざわめきはどこか湿っていて、
美由紀はひとり、傘をたたみながら木製のドアを押し開けた。
「いらっしゃいませー」
カフェ・オルフェ。
路地裏にあるこの小さな喫茶店は、彼女が女の子の服で外を歩けるようになった頃から、時々訪れていた場所だ。
どこか昭和の香りがする、深い色の壁紙と、アンティークな照明。
それでも、店主の柔らかな空気のせいか、緊張を感じさせない場所だった。
窓際のカウンター席に座り、ミルクティーを注文する。
ぼんやりと外を見ていると、誰かが隣の席に腰を下ろした。
ちら、と視線を向けると、そこには見慣れない青年がいた。
柔らかそうな髪と、少し幼さの残る横顔。
けれど、本を読むその姿勢には、どこか芯の強さが感じられた。
彼が読んでいたのは、厚みのある洋書だった。
背表紙には《Gender Performativity》の文字。
(……パフォーマティヴィティ?)
無意識に興味が顔に出てしまったのだろう。
青年がふと、美由紀の視線に気づいてこちらを見た。
「……あ、すみません。うるさかったですか?」
「えっ、いえ……そうじゃなくて、なんて本を読んでるのかなって。珍しい言葉が見えたから」
青年は驚いたように目を丸くし、すぐに笑みを浮かべた。
「パフォーマティヴィティ。ジュディス・バトラーって知ってますか?」
「……聞いたことはあるけど、ちゃんとは」
「性って、演じるものでもあるんですよ、っていう考え方ですね。
服装とか、声とか、仕草とか……“らしさ”って、実は社会の中で身につけてるんじゃないか、って」
その言葉に、美由紀はまるで心の奥を撫でられたような気持ちになった。
「……それって、演じてるってことが、悪いことじゃないってこと?」
「そうです。演じること自体が、自分を選び取る行為かもしれないって。
だから、どんな“らしさ”も否定されるべきじゃないって思ってます」
初対面のはずなのに、彼の言葉は妙にまっすぐに響いてきた。
「あなたも、その本に興味があるんですか?」
ふと聞かれた問いに、美由紀は少しだけ戸惑い、そして頷いた。
「……うん。ちょっとだけ」
青年は手を差し出した。
「日向です。大学で、ジェンダーのことを少し勉強してて」
美由紀は、迷いながらも手を取った。
「美由紀、です」
「素敵な名前ですね」
――その言葉は、どこか優しく、美由紀の胸に灯をともした。
たまたま入ったカフェ。
たまたま隣に座った誰か。
その偶然が、やがて大きな出会いになることを、このときの美由紀はまだ知らなかった。
けれど確かに、心がほんの少し、未来のほうへと動き始めていた。