四、行方 ー2
胸が痛かった。トラウマとはこういうことをいうのだろうか。頭で勝手に流れ出す映像が止まらない。目を瞑っていても脳裏に蘇ってくる。何かに胸を掴まれているようだ。この掴んでくるものが何かと問われたならば、それは自分が現実だと思っていたものが脅かされる恐怖とでもいうのか。結局のところそこに根ざしているものは「死への恐怖」である。
「……くん」
――いや、だとしても……これが現実なら……。
「……ひとくん」
――これは……夢……。
「……あきひとくん」
――うるさいなぁ、いま少し考えているんだ。静かにしてくれ。俺の命に関わっているかもしれないんだから。
「あきひとくん」
――うるさい。うるさい。今俺は命の危険に……。
「明仁くん」
「だから、うるさいんだって!」
そう声を荒げて明仁は声のした方へと顔を上げる。
「あ……」
やってしまったと思った明仁の見上げた先にいたのは、前の席の生徒だった。その生徒は女生徒であったが、あまり顔を見たことも話したこともなかった。確か名前は、天晶偲乃というんだったか。
「あっ、ごめん……。天晶さんだったよね。な、何だったのかな」
とりつくろった感じで彼女に言う。
「あ、いや……。プリント……」
そういって彼女は手元にあったプリントを差し出した。
「あ、ああ……。ありがとう」
明仁はプリントを手に取った。
「なにかあったの?明仁君」
彼女は少し照れたような表情でそう言った。
「ん?いや、なんでもないよ。ごめんね」
「そう……ならよかった」
そういって彼女は前を向いた。
「ふぅ……」
と明仁はため息をつく。少し周りがざわざわしているのを肌で感じて恥ずかしくなり、顔を隠すようにしておでこに両手を載せる。だが、彼の頭にあったのは、声を荒げてしまったことではなく、さっきの不可解な現象を日色に見られたかもしれないことだった。また自分への疑いが大きくなってしまった。そんな気がした。
昼になる。明仁は昼食用のパンを取り出して、一人で食べる。授業内容は何も覚えていなかった。もう何が何だかよく分からない。思考と感情が同時に頭をかき乱してきたような感覚を覚え、重い疲れに襲われた。
――夢だ。これは夢だ……。
明仁は疲れに身を預けるように体を机に伏せ、しばらくして寝息を立て始めた。そしてそのまま今度は眠りの中で長い夢を見るのだった。
「なぁ、この世界にはさ、意味があると思うか?」
誰かに語り掛けられた。暗くぼんやりとしてかすんだような視界で、姿はよく見えない。
「意味……。生きる意味ってことか?」
そう答えた。
「そうだな。生きる意味、それもある。でも今回はもっと広義的な意味にしようか。存在する意味、だ」
「存在する意味……?」
よくわからない。
「人間、生物、ひいては生命だ。まぁここでは今回は人間に絞ろう。存在する意味、あると思うか?」
「……」
「全てが無くなると分かっているのに、何もかもが結局本当のところ何も分からないのに、それでも存在する意味、あると思うか?」
何が言いたいのだろうか。返答できずに黙り込んだ。
「救う意味、あると思うか?」
「……」
急にそんなことを言われてもよく分からず、沈黙がながれる。幾らかの沈黙があった後、再びその何かは話を始めた。
「お前には意思はあるか?」
「意思……?」
「では願望はあるか?」
「願望……」
「望みだ。この世界に生まれ落ちてから全てを無くすまで、その時間は有限だ。その中で何かを成し遂げたいと思う強い願望はあるか?」
「……」
そんなことあまり考えたこともなかった。
「今はそれでいい。いつかお前にも何か望みを持つ時がくるはずだ。強い望みを。だが、何かを望むというのは、同時に何かを捨てる、ということだ。」
「……はぁ、……」
ため息のような腑に落ちていない感じの声が漏れる。
「いつか分かる時がくる。進み続ければいつか、な。」
そう言ってその誰かはすっと煙が去るように消えていった。
その後の夢がどんなだったのかはよく覚えていない。虹を見たような気もするし、真っ黒がただ広がっていたような気もする。でも一つ言えるとしたら、それはとても奇妙で不思議で少し吐き気がこみあげてくるような気持ち悪さを覚えるものだった。
何か明るさを感じて眠りから目を覚ます。赤く染まった太陽が教室を照らしていた。明仁は体を起こし、少し背を伸ばす。体はしっかり寝てしまったからか、元気そうだ。しかし、頭はぼんやりとしており、雲がかかっているようにどんよりとしていた。そのままぼんやりと外を眺めているところでチャイムが鳴った。どうやらもう下校のチャイムのようだ。この時間まで誰にも起こされずに寝られたのは割と奇跡だったのかもしれない。それとも起こされても微動だにしなかったのかもしれないが……。そして明仁はすぐに教室を出た。早く帰って休もう。寝たはずなのに脳が疲れているような感覚だった。歩きながら夕日を見て思う。何か見たことある夕日だ。いや、夕日はよく見るから当然か。でも、何かデジャブのような既視感を覚える夕日だった。
その夜、ある家で夫婦が二人で食卓を囲んでいた。だが、そこには笑顔も会話もなかった。薄暗い部屋で沈黙が流れていた。
「なんで」
男が切り出した。
「なんで、れいかは殺されなければならなかったんだ」
ぽつりと呟く。
「なんで……!」
沈黙が流れた後、すすり泣く女性の声がする。
「っ……」
続いて男のすすり泣く声も聞こえてくる。
「嘘だよな。そうだよな……。これは、ただの夢、だよな。寝たら覚めるんだよな」
「うっ、うぅ……」
女性は泣き声をこらえているままである。
「寝よう、みちか……。もう遅い。とりあえず寝るんだ……」
男はそう言い、自身の寝室へと入っていった。
次の日が訪れた。忘れられないこの日。明仁にとって本当にすべてが急速に変わり始めた日だ。それは朝礼の後で教師から述べられた一言から始まった。
「今朝、情報が入った。みんなにはどうかこのことについて知ってることがあれば教えてほしい。クラスの一員としてぜひ協力して欲しい。水雪麗花さんが昨日、……死体で見つかったそうだ」