迷子の春
今年の桜の開花は、全国的に遅いそうだ。
僕の桜も咲かなかった。
今日あった国立大学後期の合格発表に、僕の受験番号は無かった。けれど、私立の補欠合格が繰り上がる可能性は、ゼロじゃない。ゼロじゃないけど。
「可能性は、かなり低いな」
声に出しても、夜の公園に、僕を訝る者は誰もいない。不合格という事が、自分の所属が定まらないという事が、こんなにも心を不安定にするとは。自分の全てを否定されたような気分だった。
発表後の腫物を触るような家族の対応や、砂を噛むような夕食。合格を知らせる友人のSNSを見て、通知を切った。素直に「おめでとう」が言えない僕は、嫌な奴だと思う。居たたまれなくて、家を抜け出した。
慰みに夜桜でもと、近くの公園にやって来たが、桜は、やっと蕾が確認できる程度だった。毎年、此処の桜を、春の慰みにしていたというに。
(何でだよ。どうして、咲かないんだよ。あんなに頑張ったのに)
不意に、涙が零れた。
(泣きたくない。泣いたら、心が崩れ落ちる)
無理やり顔を上げると、滲んだ視界に、何かが見えた。公園の中央に植わる、樹齢五十年ほどの立派な桜の樹の下が、ぼんやりと白く発光している。
(何だろう。ふわふわした綿毛みたいな光)
僕は、頬を手で拭うと、座っていたブランコから立ち上がり、ゆっくり近付いて行った。近付くにつれ、何とも言えぬ良い香りが漂う。光の元は、小さな女の子のようだった。
(こんな時間に、小さな女の子が? 公園に来た時には居なかった。いや、気付かなかったのか?)
公園といっても、さして広くもなく、端から端まで一望できる程度だ。誰かが居たら、気付くはずだ。僕が俯き泣いている間に来たのだろうか。
更に近付き、よく見ると、両目に手を当てて、泣いているようだった。
小学校低学年くらいに見えた。
天女の様な服装で、白く柔らかな春霞の領巾を棚引かせ、裳裾は淡い桜色。艶やかな振り分け髪の額には、朱の花鈿。
何かの撮影なのだろうか。僕は、辺りを見回した。が、撮影者の姿はない。
全身が淡く発光している。人間ではないのかもしれない。では、幽霊とか妖怪の類なのか。しかし、嫌な感じは全くしない。
良い香りと共に、うららかな心持になり、先程までの荒んだ心は、知らず癒されていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
思わず声を掛けてしまったが、頭の中に『声かけ事案発生』という語句が浮かんだ。
「べ、別に、怪しいお兄さんではありません」
付け加えたが、自分を怪しくないという奴は、怪しさ百パーセントだろうと思った。
女の子は顔を上げて、僕を見た。
「我が名は、佐保。佐保姫と呼ばれておる。我は、家に帰りたいのじゃ」
近付く僕に、驚くような素振りも、怯えるような素振りも見せず、鈴を転がすような声が頭の中に響いた。
(さほひめ?)
お姫様だとしたら、ため口は駄目だろう。
「迷子なのでしょうか?」
佐保姫は、恥ずかしそうに頷いた。
「お家は、どちらになりますか?」
「奈良の佐保山の辺りじゃ」
「奈良ですか」
「佐保川という川の側である」
「そこまで、お分かりでしたら、お帰りになれるのでは?」
「ほ、ほう……」
「はい?」
「方向音痴なのじゃっ!」
京都から奈良に帰ろうとして、ここ東京まで飛んで来てしまったと。
「飛ぶことが、お出来になるのですね」
「うむ。女神じゃからな。ほれ、この領巾で」と春霞の領巾を見せる。
「普通に飛ぶ分には、何処でも行けるのじゃが、戻ろうとすると、前回、出発した所までしか、戻れぬ。それが難点なのじゃ」
佐保姫は、京都から奈良に戻ろうとして、色々な所に降り立ってしまい、最終的に、東京に降り立ったのだという。
つまり、現時点で、領巾の戻る機能で戻れるのは、直近の出発点、何故か、長野県だと言う。
(どうしたら、そうなるんだよ)
突っ込みたいのを、我慢する。
「では、僕がご案内いたしましょうか」
「一緒に飛んで、案内してくれると申すか」
「はい。佐保姫様が、よろしければ」
「では、ちこう寄れ」
隣りに立つと、右手を広げ、春霞の様な領巾でふわりと僕を巻き込んだ。良い香りに包まれる。
「参るぞ」
「ちょっと待ってください」
僕は、スマホを取り出して、地図アプリを起動し、目的地を設定した。
「何じゃ、それは」
「ナビゲーションシステムにございます。これが目的地まで案内してくれます」
「ふむふむ。便利じゃのぉ。それがあれば、迷子にならぬか」
「ああ、いえ。僕の母など、これがあっても迷います。方向音痴は才能かと」
「そうなのか。使えぬのう」
「では」と言って、僕の背中に回した手と反対側の左手で手刀を作り、額に当てると、何事かを唱えた。
「行くぞ」
「は、はい」
飛ぶというのは、どんな感じなのだろうか。などと考えている内に、公園の上空まで垂直に上昇していた。
(う、浮いてる!)
「さて、どっちじゃ?」
「西南に進んでください」
「西南が、どちらか分かるのなら、迷ってはおらぬわ」
佐保姫は、頬を膨らませた。
「えっと、只今、月が上って参りました方が東にございます。月を背にしばらく飛んで頂ければ」
「あい、分かった。体を水平に。こうじゃ」
佐保姫は、中空に腹ばいになった。
空気抵抗を少なくするのだろう。
僕も同じように隣に腹ばいになると、体が前に滑り出した。夜風が髪を撫でて行く。
「どうじゃ? 面白いであろう?」
「おお! 空を飛んでいます!」
「領巾を離すでないぞ。落ちるからの」
サラッと、怖い事を言う。
三月下旬の上空は、寒いかと思ったが、春霞の様な領巾の所為か、全く寒くなく、体の重みも感じず、故に腹筋も背筋も使わずに、快適に飛行している。
進行方向左手に、オリオン座や冬の大三角形が見えるはずだ。星空を飛べる日が来るとは思いもしなかった。
こうして飛んでいると、大学受験失敗の苦しみや悲しみが、大した問題ではないような気がしていた。
「佐保姫様、今年は桜が咲くのが遅いのは、どうしてなのですか?」
残っていた疑問を投げかける。
「桜はの、冬の寒さによって眠りから覚め、花が咲くのじゃが、今年の冬は寒さが足りなかったの。冬を司る宇津田姫の力が、すこぉし弱かった所為じゃ」
宇津田姫を知らないが、つまり、暖冬の所為という事らしい。
「人間も同じじゃ。冬の寒さがあればこそ、花は開くもの。先程、我も泣いておったが、そなたも泣いておったの」
「……お気付きでしたか」
佐保姫は、いつから公園にいたのだろう。
「悲しみは伝わるものじゃ。そなたが、我を見付けたのも、同じ事」
そうか。悲しかったから、泣いている佐保姫を見付けられたのか。
どの位飛んだだろうか、眼下に大きな湖、たぶん、琵琶湖が見えてきた。
「佐保姫様、湖を通り過ぎたら、南へ下ってください」
「南は、どっちじゃ」
「左です」
「我にも、それを見せてもらえぬか?」
僕は、スマホを手渡した。
「むむ、面白いの。あっ! 落としてしもうた」
佐保姫の手を離れ、僕のスマホは、無慈悲に落下していった。
子供の手には、大き過ぎた。などと言っている場合ではない。下は、琵琶湖だ!
「わぁああああ」
「すまんの」
パニくる僕を尻目に、落とした張本人は、泰然としている。
左手の手刀を額に当て、何事か唱えた。
すると、スマホは重力に逆らって浮上し、佐保姫の手に戻って来た。
「ほれ」
手渡されたスマホを、ガッチリと握り締めた。
「おお、京の都が見える」
「此処を左です」
「何と! 東大寺が見えてきた」
「その手前で……」
「此処まで参れば、我にも分かる」
佐保姫は「体を立てよ」と続けた。
体を垂直にすると、佐保姫と僕は、ふわりと地上に降り立った。
佐保山は、山といっても丘陵地帯だった。
「佐保川沿いの桜並木も、今年は遅れておるのじゃ」
少し寂しそうに言い「我も頑張らねばな」と両手を握りしめた。
「さて、世話になった。お蔭で帰って来れた。礼を言うぞ。世話になった礼に、そなたの桜を目覚めさせて置くの」
「えっ?」
「帰ってからの、お楽しみじゃ」
佐保姫は、片目を瞑って見せた。
すると、その姿は、若い女性の姿になった。
「移動の時は、子供の方が目立ち難いからの」
輝くお姿は、一層美しく神々しかった。
畏れ多くも見惚れていたが、大切なことを忘れていた。
「えーっと、僕はどうやって帰れば……」
言葉が終わらない内に、僕の体は春霞の領巾に包まれ、出発点の東京に戻っていた。
僕を公園に降ろすと、領巾は、ふわりと浮き上がり、消えた。
公園の中央にある樹齢五十年ほどの桜の樹の下に僕は居る。
スマホで時刻を確認すると、家を出てから三十分程しか経っていなかった。
「そんな馬鹿な。地図アプリによると、飛行機で片道一時間以上掛かる。三十分といったら、家から公園まで歩いて、ブランコに座って、ちょっとした位じゃないか」
超高速で飛んだら、星や景色は、あんなにハッキリ見えはしないだろう。どういう事なのだろうと考えて、はたと、思い当たった。
(領巾だ。領巾は、時間と空間を、直近の出発時点と地点まで、巻き戻すのではないのか?)
自分は本当に佐保姫に会ったのだろうか。
夢でも見ていたのではないのだろうか。段々、自信が無くなって来た。
その時、スマホが鳴った。母からだった。
「どこにいるの? 冷えてきたから、戻ってらっしゃい」
懐かしい声がした。人生迷子の僕が帰るべき場所。
帰宅してから、調べてみると、佐保姫は、春を司る女神で、梅や桜の花を咲かせるとのことだった。
暖冬だったのもあるが、桜の開花が遅いのは、佐保姫が迷子になっていた所為なのでは? と思った。
月末まで待ったが、私立大学から繰り上げ合格の連絡は来なかった。
浪人確定だ。冬の寒さを十分に味わおう。次の開花の為に。
しかし、数週間後、僕の桜が咲いた。
予備校で、人生初の彼女が出来たのだ。
こっちの桜だった。
「帰ってからの、お楽しみじゃ」
鈴を転がすような佐保姫の声が蘇る。
公園の桜は、満開になっていた。