玖
源五郎は何度も姿勢を変えながら、舗装されていない道を進むバス移動を乗り切ろうとしていた。
隣に座る真由美は、源五郎の老体を気遣い頻りに「大丈夫?辛くない?」と声を掛けてくれる。腰も痛いし、背中も痛い。だが、孫娘に情けない姿は見せられない。源五郎は真由美に対して、こんなの屁でもないと虚勢を張り笑って見せた。
駅から離れるに従い家々は疎らとなり、長閑な田園風景が広がっている。窓の外からよく見ると、それらの多くが、あばら屋と荒れ果てた耕作放棄地であるのが分かった。駅から乗り合わせていた乗客の姿も次第に減り、今バスに乗るのは源五郎と真由美、初老の運転手の三人だけとなっていた。
目的の駅に着き、運賃箱に小銭を入れていると、運転手が二人に声を掛けた。
「こんな、なんにもねえ片田舎まで乗られるお客さんは珍しいべ。帰りのバスは三時間に一本、最終が十七時十分だぁ。人も殆ど住んじゃいねえし、商店も宿もねえから、くれぐれも気を付けるんだべよ」
「私達、御寄村があった所まで行こうと思うのですが、運転手さんは廃村になる前の御寄村には行った事ありますか?」
「ああ。村ん中にある神社で豊穣神様ば崇める祭りっちゅうんが毎年開かれちょったから、小さか頃に一度だけ見に行ったべ」
「どうして一度だけしか行かなかったんですか?」
「なしてか詳しく思い出せねえが、その祭りが異様に見えておっかなかったんだべ。小っ恥ずかしい話だけんど、そんでおら、ずっとおっかあの胸の中で泣いてたんたんさぁ」
不意にトンネルの中で何者かに追われた時の恐怖が想起され、真由美の背筋に冷たいものが走った。
足を踏み入れてはいけない場所に、これから踏み入ろうしているのかもしれない。真由美は源五郎も自分と同様に、前途に一抹の不安を覚えたのではなかろうかと思い、恐る恐る顔を覗き込んだ。
「ははは!お前さんも祭り程度で怯えるなど、かなりの洟垂れ坊主だったんだな。日本男児たる者、もっとシャキッとせにゃならんぞ」
源五郎は真由美の不安を余所に、運転手の背中を平手でパシンと叩き、何て事無いと言わんばかりに笑い飛ばした。真由美はその姿を見て、必要以上に怯えている自分が何だか莫迦らしく思えてくすりと笑った。
バスを降りた二人はバスが通って来た農道を渡り、山間にある御寄村へと続く草木の生い茂る細い山道へと入った。
険しい山道である事には変わり無いが、人が通れない程荒れていなかったのは、せめてもの救いである。先頭を進む源五郎は後ろの真由美が通り易い様に、顔の高さまで伸びる枝を折り、足元に広がる藪を踏みしめながら進んだ。微塵も疲れを見せない源五郎に真由美は感嘆の声を上げた。源五郎は鼻高々に、日頃の乾布摩擦の賜物だと嬉々として言った。
川に掛かる木製の踏み板の吊り橋を渡り、一際大きな枝を払い除けると、開けた視界の先に家らしきものが点在しているのが見えた。きっとここが御寄村に違いない。二人は手を取り喜び勇んだ。
荒れた田畑の畦道を進むと、古ぼけた茅葺屋根の平屋が並んでいる。中には柱が腐り倒壊した家屋も散見する。庭先には竹で拵えた物干し竿や木製のたらいと洗濯板が当時のまま残されており、ここでは確かに生活の営みがあったのだと感じさせた。
「おー。これは懐かしい」
源五郎は縁側の下に放り込まれていた竹馬を見つけ、それを拾い上げ乗って見せた。
「どうだ、お前も乗ってみんか?」
源五郎の華麗な竹馬捌きには目もくれず、真由美は少し先の方に見える何かを見ていた。
彼女はその視線の先に、なだらかな山の斜面にぽっかりと口を開けた深い闇を見ていたのだ。
「源五郎おじいちゃん。あれってもしかして・・・」
源五郎は真由美の指差す先を見て、昨日の又八との電話を思い出した。
「ああ。念の為にその村に行ってみようと思うんだ」
「そうだべか。御寄村はS県の山間の村だべ。おら達一家が出てって直ぐに廃村になったから、今の地図には載ってないんだべ。最寄りのバス停から徒歩で一時間以上は覚悟せにゃなんねえ。あっ、そうそう。村の中に豊穣神様ば祀ってる立派なお社があっから、行ったついでに見て来るとええべ」
「又八。一つ聞きたいんだが、その村にトンネルはあったか?」
「んだ。よく知ってんな。おらが生まれるよりもずっと昔に掘られたトンネルが一つあんだべ。何だったけな?そのトンネルに纏わる伝承をさ、昔ばっちゃんから聞かされたんだけんど思い出せねえべ」
敢えて事前に真由美に話さなかったのは、まだ見る前から、そのトンネルこそ夢の中に出てきたトンネルだと早合点させない為だった。
「源五郎おじいちゃん。行ってみようよ」
真由美は源五郎の手を引いて走った。
高さ三メートル程の石畳のアーチを描く朽ちかけたトンネルの入口には金網が張られ、立入禁止の看板が掛けられていた。金網の隙間から見える漆黒の闇は、二人に黄泉の国へと通じるかの様な不気味な印象を与えた。まるでその存在までもを覆い隠すかの様に聳え立つ木々の一群が日の光を遮り、昼前にも関わらず薄闇が広がる。
真由美は躊躇う事無く金網を乗り越え、トンネル内部に足を踏み入れた。源五郎も真由美の後を追って、金網を乗り越えた。
トンネルに下り立った源五郎は巾着の中から懐中電灯を取り出た。昨日、又八との電話の後に、トンネルを見つける可能性を考えて準備していたのだ。真由美は源五郎の周到さに感心した。
電源を入れ内部を照らすと、闇に覆われていた不気味なトンネルがその姿を露わにした。
「ここだ!間違い無い!」
真由美は驚嘆の声を上げた。源五郎から懐中電灯を借り、方々を照らしてみた。
「先に進んでみようよ」
「ああ」
源五郎は頷いた。
二人は懐中電灯の明かりを頼りに歩みを進める。
「ここで何してる!」
突然の背後からの声に二人の心臓は縮み上がった。
慌てて振り返ると金網の向こう側に男が立っていた。年の端は源五郎と変わらない位だろうが、痩躯で強風が吹けば飛ばされそうな風采である。
「すみません。直ぐに出ます」
二人は入口に引き返した。真由美はここで老人の静止を無視してトンネルの先に進むよりも、彼の言葉に素直に従って有益な話を聞き出すのが得策だと考えたのだ。
「ここは立入禁止だべ。あんたら、こんな辺鄙な所にわざわざ肝試しに来たという訳ではあるめえ。何が目的なんだ」
「そんな事、見ず知らずのお前さんに言う義理は無い!」
「なんと言うか!」
源五郎と老人は激しく睨み合った。
「待って!源五郎おじいちゃん」
真由美は二人の間に割って入り、いきり立つ源五郎を必死に宥めた。
「私達がいけなかったんです。すみません。詳しくは話せませんが、ここへ来たのは、どうしてもこのトンネルに入って調べたい事があったからです。誓って言います。決して悪さをしに来た訳じゃありません」
「だったらええんじゃが。しかしな、立入禁止のとこに入って行くのを黙認は出来ねえ。おらも、これが仕事だから悪く思わねえでくれ」
「お仕事・・・ですか?」
「んだ。おらは普段は麓の村さ住んでんだけんど、ここん土地ば持っちょる地主っちゅうもんに月に二遍管理の仕事を任されてんだべ。そんで、昨日来た時に、向こうのお社のしめ縄が切れちょったからに、さっき新しい縄をば取り付けて来た所なんだべ」
源五郎と真由美は目を見合わせた。悪夢の元凶はお社のしめ縄が切れた事にあり、その結果、良からぬものがトンネルの中を跋扈していたのかもしれない。図らずも、これで問題は解決したのかもしれない。
二人は老人の案内の下、問題のお社へと向かった。
檜造りの鳥居を潜り、長い石段を上った先に、檜皮葺の屋根を持つ木造の寂れた社殿が見えた。左右の柱に結わえられたしめ縄だけが真新しい。屋根の上に止まるカラスの群れが、不気味な緋色の目を此方に向けている。真由美は源五郎の服の袖を掴み思わず身じろぎする。カラスから目を逸らし、視線を下に向ける。自分達が立っている前庭の砂利に、いびつに楕円形に煤けた巨大な墨色の跡を見た。
「この煤汚れみたいな物は何ですか?」
「ああ、それか。それは、おらがここを見る前からあったから分かんねえんだべ。きっと住職が枯れ葉か何かを燃やした跡だべ」
真由美は老人から取り替える前の切り離された縄を見せられた。
本当にこれだけで良かったのかな?新しい縄を取り付けたんだからこれで大丈夫だよね。そうやって自らを納得させ疑念を振り払おうとした。
これで全て解決したと隣ではしゃぐ源五郎の姿を見ていると、いつの間にか、彼女の心に渦巻く不安も消し飛んでいたのだった。
真由美はその日の晩、何の夢も見る事無く、久方振りに穏やかな眠りを得たのだった。