捌
昼下がりの市立図書館の館内には、長テーブルで勉強をする学生や、新聞を読む年配者の姿が散見され、腰を落ち着けられそうな場所はどこも埋まっていた。
源五郎は昔から息の詰まる図書館の静謐な雰囲気が、どうも性に合わないのだ。孫娘の一大事とあって、久方振りに苦手な図書館に来たものの、やはり苦手意識は昔とちっとも変わらない。
二人は目ぼしい資料を幾つか借りて、周囲に気兼ね無く会話出来る図書館に併設されたエントランスホールで、それらを検める事に決めた。一度に持ち出せる本は一人十冊。二人合わせて二十冊も借りられれば十分だろう。
館内を歩き、血寄村に関連がありそうな本を探した。源五郎は分厚い日本地図を一冊手に取る。
すると、隣に居た真由美が周囲を気遣いながら源五郎に耳打ちした。
「私ね、ずっと夢の中で見た血寄村って立札が、どうしてトンネルの中に投げ捨てられたか考えてたの。だって、本来は村で目立つ場所に立てられるものが、そんな状態で転がってたんだから凄く不自然でしょ」
「そりゃ夢の中だから、不自然な事は幾らでもあるだろうに」
「そうだけど。そこにも何か意味があるんじゃないかって考えたの。例えば、血寄村は打ち捨てられた村とか・・・ね」
確かにそう言われると、この不可解な立札が何かを暗示しているかの様にも思える。不吉な村名が現在もそのまま使われる可能性はどれ位あるだろうか。だったら次に探すものは決まった。古い日本地図。それと、今は無き村の情報が記された書籍だ。
二人はそれらしき本を十冊程選び、カウンターで貸出しの手続きを行った。
早速、エントランスホールへと入り、空いたテーブルの上に借りた本を並べる。源五郎は背広の内ポケットから自前のルーペを取り出し、齧り付く様にして近代の日本地図のページを捲り始めた。一方真由美は、古い日本地図を開き、血寄村の記述を見逃さない様に、慎重にページを捲るのだった。
数時間後、エントランスホールを行き交う人々は、肩を落とす老人と、その孫娘の姿を横目に見ながらも見て見ぬ振りをし、通り過ぎるのだった。
何の収穫も得られなかった。
電車に揺られ、帰路に就くまでの道中、源五郎は押し黙ったまま、一言も言葉を発せられずにいた。市立図書館に行けば何か分かると期待を持たせ、剰え真由美に残された貴重な時間を台無しにしてしまったのだ。最悪の事態を回避出来なければ、きっとこれが最後の休日となるのだろう。こんな事になるなら、気心の知れた学友とでも過ごした方が真由美にとっては有意義だったかもしれない。
真由美は心根の優しい娘だ。儂に罪悪感を抱かせまいと、努めて明るく話し掛けてくれる。本当は自分が一番辛い筈なのに。それに引き換え、儂は何と不甲斐無い人間なんだ。
「真由美・・・。すまんかった」
真由美は力なく塞ぎ込む祖父の姿を見て、目の奥が熱くなった。無茶な相談をしたばかりに、こうして大好きな祖父を苦しめてしまった。
「どうして源五郎おじいちゃんが謝るの?」
「期待させるだけさせといて、結局儂は何の役にも立てなかった」
「そんな事言わないで。今日はこうして源五郎おじいちゃんと久々にデート出来て、私、すっごく楽しかったんだから」
そんな曇りの無い笑顔を儂などの為に作らないでくれ。儂にはその笑顔を向けられる資格が無いのだから。
「それに、二日後に殺されるかもってのは、私の単なる思い過ごしなのかもしれないし」
何ら方策を講じられぬ以上、その可能性に、つい、しがみ付こうとしてしまう。しかし、彼の心は決して目を背けるな、この問題を楽観視するなと警告するのだ。
真由美の家が目と鼻の先まで迫り、彼女は美味しい茶菓子があるから、一緒に家でお茶を飲みましょうと提案したが、源五郎はそれを固辞した。一緒に居れば、余計に真由美に気を遣わせてしまう。
玄関前で真由美に別れを告げた源五郎は、車庫に回りカブに跨った。
しかし、気持ちが深く沈んでいたせもあり、中々カブを発進させられずにいた。
「源五郎おじいちゃん!」
慌てて玄関を飛び出して来た真由美が源五郎を呼び止めた。
「どうした?そんなに急いで」
「おばあちゃんが緊急の用があるみたいで、直ぐに電話が欲しいんだって」
二人が不在の間に、母の道子が絹江からの言伝を受けていたと言うのだ。
源五郎の心は沸き立った。が早急に連絡を寄越して欲しいと言うのは血寄村に関して、何らかの情報が齎されたからに違いない。
源五郎はカブから降り、電話へと走った。
真由美は先程までしおらしかった源五郎の突然の慌て振りに目を瞬かせている。真由美は祖母がの様な事情でわざわざ母に言伝を頼んだのか、知りたくて仕方なさそうにしている。源五郎もその様子にはちゃんと気付いていた。血寄村に関しての電話だろうと逸早く教えてやりたかったが、寸前の所で言葉を飲み込んだ。もし、これが血寄村に関する電話で無かったらどうだろうか。図書館に行けば何か分かるだろうと期待を持たせ、ここでもまた期待を裏切られる様な事になれば、真由美を失望させてしまうだろう。それは余りにも酷だ。まずは、しかと確証を得てから全てを話しても遅くはないだろう。
ダイヤルを回し、受話器を耳に当てながら源五郎は真由美に部屋で待っていてくれと、手で合図した。真由美はそれに素直に頷き、台所で茶を沸かし始めた。
短い呼び出し音の後に絹江の声が聞こえた。
「もしもし」
「儂だ。血寄村に関して何か進展があったのか?」
そう言うと源五郎は、固唾を飲んで絹江の返事を待った。
「ええ、そうですの。私も早く源五郎さんのお耳に入れるべきかと存じ、道子さんに言伝をお頼み申した次第で御座います」
淡々とした言葉の中に、絹江の喜びの声音が混ざっているのを感じた。彼女もまた、事の成り行きを源五郎と同様に案じていたのだ。
「図書館では結局何も見つけられず手を拱いていたんだ。これこそ正に渡りに船だ。で、何が分かったんだ」
「はい、源五郎さんはお出掛けになる前に、又八様のお宅にお電話をされてたのですよね」
「ああ。電話したら又八の細君が出て、又八の野郎、生意気にも獅子狩りに出掛けたって言うんで、血寄村を知らないか、帰ったら聞いといてくれって頼んでたんだ」
「そうでしたの。それで又八様ご本人からお電話がありまして、血寄村は生まれ故郷だとおっしゃられますの。私、それを聞いて居ても立っても居られなくなりまして、お忙しいかと存じておりましたが、源五郎さんに直ぐにお知らせせずには居られませんでしたの」
地図にも記されていない村を、どうやったら探し当てられるのか 正直、半ば諦めかけていた所だった。
又八は高等小学校時代に余所から越して来た学友だ。六人兄弟で、源五郎の生まれた村よりも更に寂れた農村の出だと聞き及んでいる。
「こっちから又八の所に電話すっから番号を教えてくれ」
「承知致しました」
源五郎は手近にあったメモ帳を取り、絹江が告げる番号にペンを走らせた。
書き留めた番号のダイヤルを回す時間さえも、もどかしく感じられた。。
「もし・・・」
電話に出たのは又八の細君だった。
「源五郎だ!又八、又八に早く繋いでくれ」
興奮状態の源五郎は挨拶もそこそこに急き立てた。又八が端から留守で無いと決めてかかっている。
「源さんちょっとお待ちを・・・」
電話の向こうで、又八の細君が又八を呼んでいる。そこでやっと、又八が留守だった可能性もあったのだと思い至り、微かな幸運に感謝した。
「えらい久し振りだべな源ちゃん」
「おう、そうだな。お前ん所のやんちゃな弟達は元気にしてっか?」
「次男坊と三男坊はおらより先に逝っちまっただ。四男坊とは、昔喧嘩した切り口も利いちゃいねえべ。下の妹二人は仲良く同じ病院で入院中だべ。所で、源ちゃん。なしておらの生まれ故郷さ探してんだ?」
「すまねえ。今は詳しく話してる時間が無いんだ。早速で悪いが、お前の生まれた血寄村は何処にあんだ?」
「血寄村?おらの生まれた村は御寄村だべ。源ちゃんが探してる村は御寄村じゃないべか?」
「儂が探してるのは血・寄・村だ!御・寄・村なんて探してねえわ」
「あちゃ~。そりゃすまねえ。きっとかかあが早とちりしたべさ」
「紛らわしい村に生まれやがって!お前のかかあにも儂が伝えたのは血寄村だってよく言い聞かせとけ!」
源五郎はガチャンと受話器を叩きつけた。又八夫婦に非が無いのは分かっている。しかし、どうしてもやり場のない怒りを落ち着ける事が出来なかった。
呼吸を整え、幾分か冷静さを取り戻した源五郎は、又八に申し訳ない事をしたと今更ながら猛省した。
絹江はきっと家で儂からの電話を心待ちにしているだろう。もし一報を入れなければ、きっと絹江は決して表には出さないだろうが、蚊帳の外に置かれていると深く傷付くだろう。又八の勘違いだったと伝えるのは気が重かったが、源五郎は自宅のダイヤルを回した。
「もしもし」
「儂だ」
「源五郎さん、又八様とのお電話はいかがでしたか?」
「うむ・・・。どうやら又八の聞き間違いだったらしい」
「聞き間違い、で御座いますか?」
「そうじゃ。又八の生まれ故郷ってのは血寄村では無く、一文字違いの御寄村って所じゃった」
「それは誠に残念で御座います」
受話器の向こうで、絹江が唇を噛み締める姿が思い浮かぶ。
「ああ。儂はもう少しこっちで何か出来ないか真由美と一緒に考えるつもりだ。帰りは遅くなるかもしれん。そう言う訳じゃから、ここいらで電話を切るぞ」
「もし」
受話器を置こうとした源五郎に、慌てて絹江が呼びかけた。
「どうした?」
「源五郎さん。又八様のおっしゃっられた村に行かれては如何でしょうか?」
「しかし、儂らが探してるのは血寄村であって、御寄村では無いのだぞ。行ったとて何の意味も無かろう」
「源五郎さんのお考えも承知の上で申し上げさせて下さいませ。私はこの奇怪な偶然には、何らかの意味があると考えております」
「お前の直感か?」
「そうで御座います。土台、根拠の無いものを信じてくれと申すのは、私としても大変忍びないのですが、どうかお願い申し上げます」
切実な絹江の訴えに源五郎の腹は決まった。
「うむ、良いだろう。儂はお前の直感を信じる」
「ありがとうございます」
そうして、受話器を置いた源五郎は、再び又八宅のダイヤルを回した。
短いコール音の後、電話に出たのは又八本人だった。
「又八、先程の無礼を許してくれ。すまんかった」
「そったら事ば気にして、わざわざ電話してくれたんけ?相変わらず源ちゃんは律儀さ。おらもかかあもそんな細か事は気にせんべ」
「そう言ってくれると儂も助かる。さっきの、お前の生まれ故郷の御寄村だが、どこにあるか教えてくれないか?」
「だども、源ちゃんの探しちょる村とは違ったべさ。そんでもええんけ?」
「ああ。念の為にその村に行ってみようと思うんだ」
又八の話はこうだ。S県に位置する故郷の村は今は廃村となっている為、古い地図でしか確認出来ないそうだ。
S県までは電車で約四十分。そこからバスに乗り継ぎ、村の最寄りのバス停まで約一時間。そこから更に徒歩で一時間といった目算だ。
今から準備をして出発するとなると着く頃には日が暮れてしまうだろう。出発は明日に明日の朝にしよう。
又八との電話を終え、源五郎は真由美の待つ居間に入る。
真由美は急須の中の緑茶を源五郎専用の湯飲みに注ぎ、源五郎は真由美の淹れた茶を啜りながら、過度な期待を持たせない事を心掛け、絹江が電話を寄越した経緯を話し始めた。
「待たせてすまんかったな。先程から儂が電話をしていた相手は古い学友だったのだ」
「へ~、そうなの」
「実はここへ来る前に、電話で数人の友に血寄村を知らぬかと聞いて回ってたのだ。そして儂らが留守にしている間に、絹江の元に血寄村が故郷だと言う者から知らせがあった」
「えっ!嘘?」
真由美は目を見開き、喜びに満ちた表情で源五郎を見つめた。
「まあ、落ち着け。それで絹江は慌てて此方に連絡を寄越したのだ。儂は絹江から聞いた友の宅へと電話をしたが、友の故郷は血寄村でな無く、一字違いの御寄村だった。つまり、あの男の聞き間違いだったんじゃよ」
「そうだよね。そう簡単に見つかりっこないもんね」
真由美の表情は次第に曇り、目を伏せながら吐き捨てる様に言った。
「しかし、絹江は直感で御寄村へ行くべきだと言った。お前が夢で見た村では無いが、儂は明日、一人でも絹江の直感を信じ、その村へ行こうと思おておる。お前には今日を入れて明日と明後日しか時間が残されておらんのだろう?御寄村に行き、結局それが無駄足となってしまう可能性を考えると、儂は無理にお前を連れては行けぬ」
「無駄足になったっていいもん!私も学校休んで明日一緒に行く!」
「そうか。それなら話は決まった。お前の親達には儂から話をしておいてやる。今晩は明日に備えて、しかと英気を養っておくのだぞ」