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トンネル  作者: 佳樹
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 源五郎の朝は日課である乾布摩擦から始まる。

しかし、今朝は昨晩の真由美の話が尾を引いて、乾布摩擦に身が入らないでいた。

 乾布摩擦を終え、新聞に目を通し、朝食を摂っている時でさえも、どこか忙しない様子であった。

 普段から落ち着きがあるとは言い難い源五郎であるが、今朝はそれに輪を掛けて落ち着きが無いのだ。そんな夫を絹江心配した。

 「源五郎さん。朝餉がお口に合いませんでしたか?それとも、今朝はお加減が優れないのですか?」

 「朝飯はいつも通りうまかった。体調もどこも悪くありゃせん。要らぬ心配は無用だ」

 「出過ぎた事を申しまして失礼致しました」

 「まあ良い。それより、電話帳を持って来てくれぬか」

 「まぁ。こんな朝早くから、どこかへお電話なさるのですか」

 「うむ。昼つ方まで、方々に電話せにゃならんのでな」

 「のっぴきならぬ事情があると見えますが、差し出がましい事とは存じますが、私奴にもどの様な事情がお有りか、お話して頂けないでしょうか」

 絹江の真剣な眼差しに捉えられ源五郎の心は揺らいでいた。真由美には息子夫婦には話さないと約束した。しかし、絹江にまでも話さないとは約束しなかった。真由美は他の身内の者には知られたく無かったから、こっそりと自分を頼ったのでは無かろうか。だったら、その思いは尊重すべきだ。そんな考えが余計に源五郎を悩ませていた。普段の絹江は物腰も柔らかく、言葉遣いも丁寧である。しかし、ここぞと言う時には、有無を言わさぬ炯々たる眼差しを向け、丁寧な言葉の中に確固たる強い意志を示すのだ。それには源五郎さえも逆らえない。

 「どうしても知りたいのか?」

 「はい。なんだか胸騒ぎがするのであります」

 神妙な面持ちの絹江を前に、源五郎は覚悟を決めた。

 「よかろう。儂と真由美は三日以内に、何としてでも血寄村という村を探し当てねばならぬのだ。そこで儂は初めて聞くその村を知ってる者が居ないか、知人達に手当たり次第、電話をして聞いて回るつもりだったのだ」

 「もし、三日以内に見つけられなければどうなるのですか?」

 「真由美の直感によると、もし見つけられなければ、自分の命はそれまでなのだそうだ」

 絹江は言葉を失った。絹江も源五郎と同様に、孫娘がその様な悪い冗談を言うとは思えなかった。それに加え、絹江自身もまた不思議な直観を信じ、命を救われた経験が一度や二度では無かったのだ。

 「血寄村・・・。私奴も存じ上げない村で御座います。お役に立てず、申し訳御座いません」

 「気にするな。真由美が図書館の地図を調べた限りでは見つけられなかった程だ。一筋縄では行かぬと覚悟しておる」

 地図にも記されていない村を果たして三日で見つけられるだろうか。源五郎は困難な状況である事を再認識させられた。だからと言って、初めから諦める分け訳には行かぬと自らを奮い立たせた。

 絹江は壁に掛けてある手書きの電話帳を外し、源五郎の居る居間へと戻った。絹江から電話帳を受け取った源五郎は黒電話の前に立ち、ア行から始まる相田勇の番号のダイヤルを回した。相田勇は久しく連絡を取っていない同郷の友である。

 呼び出し音が五回鳴っても依然として応答は無い。諦めて受話器を置こうとした時、受話器の向こうから声が聞こえた。

 「もしもし・・・」

 怖ず怖ずと蚊の鳴く様な囁き声が、辛うじて源五郎の耳に届いた。小心者の質は相変わらずだなと心の中で懐かしんだ。

 「おう、泣き虫勇。久し振りだな。どうだ、しぶとく生きてたか?」

 「その声は、まさか源ちゃんかい。俺もいい年なんだから、泣き虫勇は止めてくれよ。そう呼ぶのは源ちゃんだけだぜ。それにしても随分と久し振りだな」

 「かれこれ五十年振りか、それ以上だな。どうだ?あっちの方も元気か?」

 昔から変わらぬ源五郎のひょうきんさに勇は安堵の溜息を漏らす。

 「何言ってんだよ。あっちの方はすっかりご無沙汰だよ。源ちゃんは相変わらずあっちの方も元気なのかい?」

 「当然だろ。まだまだ現役だ。てっきり嫁さんが電話に出るとばかり思ってたんだが、今時分はどこか出掛けてんのか?」

 「実はな・・・。かかあは五年前にあっさり死んじまったんだ」

 「そうか・・・。それは残念だったな・・・」

 それから二人は、久し振りの会話とあり、お互いの近況を語り合った。長らく話し相手を失っていた勇は訥々と話し、源五郎もその調子に合わせた。昔話にも花が咲き、若かりし頃に戻った彼らは、時が経つのを忘れて数十年分の時を埋めた。

 年齢的にもお互い、いつどうなるか分からない身の上だからと言い、近い内の再会を約束し、源五郎は満足気な様子で電話を切った。

 時計に目を向けた源五郎は思わず、あんぐりと口を開けた。昔を懐かしむあまり、二時間以上も話し込んでいたのだ。

 「いかんいかん。こんな調子では時間が幾らあっても足りやしない」

 次の番号のダイヤルに指を掛けたが、そこで呆けた様子で手を止めた。

 「はて、儂は勇に血寄村の事を尋ねたろうか」

 肝心な事を話し忘れていた。本題を忘れて、また掛けな直すとあっては格好がつかない。他にも電話をする所は沢山あるのだから、一旦勇は後回しにしよう。

 次は明石健司。源五郎とは二十歳以上歳の離れた将棋仲間だ。

 「はい。明石で御座います」

 品の良さそうな女性の声であった。将棋会館で明石が連れ立っていた和服を着た細君を思い出す。

 「健司の野郎は居るか?」

 品位の欠片も無い不躾な源五郎のだみ声に、健司の妻は一瞬怯んだ。

 「失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 「健司の野郎には歩兵の源から電話だって言や分かるさ」

 「では、少々お待ち下さいませ」

 ややあって電話口から男の声が聞こえた。

 「どうもご無沙汰してます。源さんが電話を寄越すなんて珍しいですね」

 今度は忘れない内に、真っ先に本題を切り出そう。

 「おう、健司。実はお前に聞きたい事があるんだ」

 「何でしょうか?」

 「血寄村ってのを探してんだが、そんな村、どこかで聞いた事あるか?」

 「その血寄村ってのは、どんな字を書くのですか?」

 「赤い血に落語の寄席の寄、それに市町村の村って書いて血寄村だ」

 「不気味な村名ですね。すみません。私にはその様な村は聞き覚えがありません」

 「そうか。すまぬが、お前の知り合いにも知ってる者が居ないか聞いてみてはくれぬか?」

 「いいですよ。源さんには何かとお世話になってますから、それ位の事は協力させて貰いますよ」

 「それは助かる。ありがとな健司」

 伝えるべき事を伝えた源五郎は受話器を置いた。

 ここで要領を掴んだのか、真由美を迎えに行く時間までに、サ行までの電話を終えた。留守中の宅には帰宅後電話する事を考え、主人が外出している宅には、電話口の相手に伝言を頼んだ。

 午前中に出来る限りの事はやった。絹江には、自分の外出中に電話を掛けた相手から、折り返しがあれば用件を聞いてくれと頼んである。

 電話をした誰かしらが血寄村の情報を齎してくれるのを願いながら、源五郎は真由美の待つ家へとカブを走らせた。

 源五郎が息子夫婦の家に着いたのは午後十二時を少し過ぎた頃だった。

 真由美はまだ学校から帰って来ておらず、息子もこの時間は勤めに出ている。義父と二人きりの気まずさを紛らわすかの様に、居間に座る源五郎の目の前を忙しなく道子が動き回る。

 「あー忙しい、忙しい」

 わざとらしい道子の台詞に、源五郎は眉を顰める。込み上げる怒りを必死に抑え、何も聞こえぬ振りを装い、腕組みをしながらゆっくりと目を閉じる。

 「ただいま」

 玄関から真由美の明るい声が聞こえた。源五郎は、その声に僅かばかりの翳りが含まれているのを感じた。まだ十六歳のこどもである孫娘が、両親を心配させまいと、恐怖を押し殺し、気丈に振る舞う姿に心が締め付けられる。

 居間の襖を開き、源五郎の姿を見つけた真由美の表情が明るくなる。

 「ごめんね、源五郎おじいちゃん。結構待ったでしょう?」

 「なに、今しがた着いた所だ」

 「今日は何だかいつもと雰囲気が違うね。・・・そっか、服装が違うからか。素敵。よく似合ってる」

 「っおお、そうか」

 源五郎は柄にもなく、照れくさそうに顔を赤らめはにかんだ。

 彼は家の中であろうが余所行きの時であろうが、夏には白のランニングシャツに股引。冬はその上から半纏を着るのが常であった。お洒落とは無縁の人間である。

 そんな祖父を真由美は一度も恥じた事は無い。だが、源五郎自身が多くの人が行き交う都会に出るとあって、可愛い孫娘に恥を掻かせたくない一心で、袖を通さぬまま箪笥に眠っていた背広を引っ張り出して来たのだ。更に、それだけでは物足りぬと思い、道すがらこれまた似合いもしないカンカン帽を購入し、丸く刈り上げられた頭にちょこんと被せた。

 これ程にもアンバランスな服装を褒めてくれるのは、世界の中でただ一人、真由美だけだろう。

 「すぐに支度するから、ちょっとだけ待ってて」

 そう言い残して、真由美は二階の自室へと駆け上がって行った。

 程なくして、身支度を整えた真由美が居間で待つ源五郎に声を掛けた。

 そして、家を出立した二人は、電車とバスを乗り継ぎ、市立図書館へと向かったのだった。




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