伍
妹と電話で話した数日後、私は自らの提案が間違いであったのを思い知らされる事となった。
何故あの時、こんなにも無責任な提案をしてしまったのだろうか。妹の悩みを軽視していたのは否めない。悔恨の念は、どんなに時が経とうが、私の心から決して消えない。
私が妹に対して行った提案。それは、遠方に居て身動きの出来ない私に代わって、祖父を頼ってみてはどうかというものだった。
父方の祖父である源五郎は幼い時分の私から見て、その厳めしい顔つきから仁王像を思わせた。今日では稀少な古き日本人である祖父は「お国の為」が口癖であった。戦時中、特攻兵に志願したものの、特攻前日に終戦を迎え、お国の為に務めを果たせなかったと恥じ、血の涙を流したのだと語り聞かされた。そして祖父のもう一つの口癖に「日本男児たるもの」がある。病弱でひ弱な私は、耳元でその怒号が飛ぶ度に身の竦む思いがした。
そんな軟弱な私に活を入れ、立派な日本男児にするのが最期の使命であると自らを奮い立たせていた祖父は、心を鬼にして敢えて厳しく接していたのかもしれない。
夏休みや冬休みといった長い休みに入ると、決まって私は祖父の家に預けられた。普通の子供であれば、長期の休みは嬉しいだろうが、私にとってはそうでは無かった。祖父の家で地獄の日々が待っているのだ。
毎朝決まって早朝の五時に叩き起こされ、寒さの厳しい雪の日であろうが関係なく、軒先での乾布摩擦を強いられるのだ。
部屋の中で宿題をしようものなら、勉学よりも健全な肉体を作るのが肝要だと言い、竹刀を片手に、黄ばんでヨレヨレの白の肌着に、ベージュの股引といった出で立ちで、朝から晩まで付きっ切りで、過酷な筋トレの指導官を務めるのだ。
そんな祖父に反発してか、父は祖父の願いである警察官という職を選ばずに、銀行員の職に就いた。祖母は父が銀行員になり、大いに喜んだ。しかし祖父は、「他人様の金勘定を生業にするなど、そんな莫迦げた話があるものか!こんな莫迦息子を育てたとあっちゃあ、お天道様の下を歩けねえ!この北村家の面汚しめ!お前の顔を見ると反吐が出る!」と烈火の如く罵ったそうだ。
元々、父子仲が良好で無かっただけに、その一件が親子関係を修復不能とする決定打となった。親子の縁を切ると言った祖父と、二度と家に戻らないと言った父を必死で説得した祖母の苦悩は計り知れない。
親子の縁を切るという最悪の事態は免れたものの、険悪な状況は続いた。二人が話をする姿を私は一度も見た事が無い。お互いが相手に対して何か言いたい事があれば、祖母や母を介して物を言うのだ。間に挟まれた人間はたまったものじゃない。大抵の場合、祖父が父に対しての理不尽な不満を祖母に伝え、それを聞いた父が理路整然とした反論を唱えるのだ。
そうして父を見限った祖父は、その期待の矛先を、全くもって迷惑な事に、私へと変えてしまったのだ。重ねて言うが、私は貧弱で、祖父が理想とする筋骨隆々の日本男児とは大きくかけ離れている。どんなに竹刀で打たれようが、祖父が理想とする日本男児になれるはずも無い。そんな泣き言おうものなら、「だってもへちまもねえ!」とまた厳しく叱られる。
そんな、些細な事で機嫌を損ね、腫れ物に触る様に扱わなければなぬ祖父に、家族皆はうんざりしていた。
しかし、妹だけは違った。祖父に懐き、剰え幼少の時分には青褪める私を尻目に「おい、源五郎」と、無邪気な笑顔で呼んでいたのだ。
勿論、妹は家族の他の誰であっても下の名で呼ぶ様な真似はしない。祖父を手懐けるだけあって、きっと人心掌握の才があるのだろう。そんな妹を祖父は決して私には見せない、とろける様な顔で、特段の愛情を持って甘やかしていた。
もし、私が妹と同様に、源五郎と言ったのならば、気を失うまで拳骨を浴びせられるのは想像に容易い。いや、気を失っても尚、拳骨の手を止めるとは限らない。
そんな妹の、たってのお願いであれば、祖父もきっと聞き入れるのだと確信があった。祖父はきっと、妹が妖怪を見たと言えば、一切の疑念を抱かずにそれを信じるだろうし、一緒に徳川の埋蔵金を探しに行こうと言えば、妹が満足するまで、どこまでもお供するだろう。
私は祖父を苦手としているが、信念を曲げず、目的を遂行する能力の高さに関しては感服を禁じ得ない。
妹も祖父に対しては、絶大の信頼を置いていたので、この提案は間違いでは無いと、その時の私は信じて疑わなかった。