参
私は布団を払いのけ、ベッドから起き上がった。そして、机の前に向かい、デスクライトを点けた。抽斗の中から適当な紙とペンを取り出し、机の上に並べた。忘れない内に、夢の中の出来事を書き記しておこうと思ったからだ。
石畳の古びたトンネル。鼠色の着物。傷だらけの身体。壁面にべったりとこびり付いた大量の血。男女そのどちらとも取れない、縋る様な悲痛な声。そして、思い出すだけでも吐き気を催す、ヴィヴァルディの『春』。ここまで書いてみたものの、やはり振り向いた先に何があったのかは思い出せない。そもそも見る事が出来たかどうかも怪しい。どんなに頭をひねってみても答えは出ない。
私は考えるのを止め、ノートを閉じた。時計の針は午前五時を回っている。今日は日曜日。父と母は特段の予定が無い限り、八時頃には食卓に姿を現す。その時に悪夢の事を打ち明けよう。
色々と思い詰めていたせいか息苦しさを感じ、部屋の窓を開ける。秋風が頬を流れた。そうして、今自分が、現実世界にしっかりと足を着けているんだと感じる事が出来た。夜明けまでにはまだ時間もあるし、暫く横になろう。私は目覚まし時計を八時にセットた。そして、夢の中に助けに来なかった、白状なうさぎのぬいぐるみを胸に抱いてベッドに沈んだ。
『いつまでも、君の素敵な寝顔を見ていたいけど、そろそろ、その綺麗な瞳を僕だけに見せてくれないか』
目覚ましのスイッチを押す。私の一日はこの優しく囁きかけるイケボから始まる。時にそよ風の様な優しい囁きは、私を眠りから覚ますに至らない事もある。その時には、イケボとは正反対の母の怒号で不快な朝を迎えなければならないのだ。寝坊する私を見兼ねて、何度となく母は、勝手に私のイケボ目覚ましと、大きな鐘を鳴らす赤色の目覚ましとを入れ替えた。その度に私は大きな鐘を鳴らす目覚ましの電池を抜くのだ。そうすると、母は諦め、毎日寝坊するよりはましだと思ったのか、イケボ目覚ましを元の場所に戻すのだ。
眠たい目を擦り、私は部屋の扉を開けた。階段を降りると、母が忙しなく朝餉の準備をする音が聞こえる。「ウエッ!」キャベツ畑に寝そべる肉食動物の死骸を思わせる匂いが鼻を突いた。
「あら、小夜子。今日は早いのね.。そうそう、昨日の夜、部屋の電気点けたまんまになってたわよ。電気代が勿体無いから寝る時にはちゃんと消しなさい」
母は火にかけた鍋をぐるぐる回しながら言った。
今日の朝食は鍋の中を見るまでもない。これは、母が得意だと自負しているポトフだ。私は母の作るポトフが世界で一番嫌いだ。なぜ、フランスに行った事もない純日本人の母が、フランスの家庭料理であるポトフをこんなに好き好んで作るのか、理解に苦しむ。前にその不満を直ぶつけた事もある。「食べ盛りの子供の朝食が、ポトフだけってお母さんどうかしてるわ。もっとシンプルに、トーストやら、ご飯とみそ汁やらで良いんだから!」すると、母の顔色は、見る見る赤鬼の様に真っ赤になり、「昨日の夜から手間暇掛けて煮込んだポトフに何て事言うの!そう言うんだったら、あなたはもう食べなくて良いわ。ね、お父さん、私達だけで小夜子の分のポトフも食べましょう」と、父を顧みて言う。すると父は、「あ・・・ああ」と力なく答え、時間を掛けて、苦しみながらポトフを口に運ぶのだ。
食卓の中心には、ポトフのお出ましを、今か今かと待ち侘びる鍋敷きが、どっしり陣取っている。
「日曜日に早起きとは珍しいな。さあ、小夜子もこっちにおいで」
父が手招きして私を呼んだ。私は、ちょっと待っててと言い残し、二階の自室へと取って返した。
いつもと変わらぬ、日曜日の和やかな朝の食卓。その中にあって、不気味な夢の話をして、混乱を落とすのは些か憚られる気もする。かと言って、先延ばしにするのも避けたい。二人の反応も大方想像がつく。きっと母は「高校生にもなって夢ごときで何怖がってんのよ」と笑い飛ばすだろう。父は母みたいに私を揶揄わないだろうが、「そうか、そうか」と言ってそれでお終いだろう。かと言って、他に相談する相手も思い浮かばない。
そこでふと思った。仮に二人に相談したとして、私は結局どうして欲しいんだろう。詰まる所、悪夢は私個人の問題だから、これは二人がどうこう出来る問題でも無い。私は、ただ誰かに話を聞いて、共感して欲しいだけなのかも。それならいっその事、母に揶揄われる前に、深刻な話としてでは無く、笑い話として言っちゃえばいいんだ。うん、そうだ。そうしよう。
私は机の上の置ノートを小脇に抱え、階段を下りた。食卓に向かうと、母が丁度、人数分のポトフを継ぎ分けているところだった。私は自分の分は自分で注ぐからと言い、母からお玉を受け取った。
「なに遠慮してんのよ。沢山あるんだからもっと注ぎなさい」
私のポトフ嫌いを無視して、母が器をひったくる。
「今日は食欲が無いの」
食欲が無いのは嘘ではない。
「あら、やだ。心配ね。風邪かしら。だったら尚更、ポトフは万病に効くんだから、たんとお食べなさい。お母さんも子供時分、病気になると、おばあちゃんの作るポトフに、どれだけ助けられたか。そのうち小夜子がお嫁に行く年頃になったら、しっかりとレシピを教えてあげるわ」
「ポトフのレシピなんてどうだっていいの。それよりも、二人に聞いて欲しい事があるの」
私は出来るだけ、深刻に見せない様に、軽い口調で言った。父と母は顔を見合わせ、ふむふむと頷き、言葉にせずとも、お互いの洞察が一致したのを感じ取った。
「父さんは、小夜子が彼氏をつくるのは、まだ早いと思うな。母さんもそう思うだろ?」
「何言ってのよ、私が小夜子くらいの年頃には、他校の生徒も含めて、何人もの男を侍らせていたんだから。」
思わす面食らった。私が寝ても覚めても、異性の事しか頭になくて、悩み事があるとしたら、男関係だと勝手に決めつけている。二人はきっと、お盛んな娘の、お気楽な悩みくらいとしか思っていないのだろう。普段どんな目で私を見てるんだろう。ともすれば、思い詰めて無い様に見せようとした、私の軽い言い方が災いしたのかもしれない。
「違うんだから。お願いだから、二人とも、ちゃんと話を聞いて」
私は話の端から、いい加減に聞かれるのが腹立たしく感じ、神妙な面持ちで、敢えて厳しめの声遣いで言った。当初、気楽に話そうと思った気持ちは、二人の無神経な発言で一気にに吹っ飛んでいた。
母は、ポトフを口に運ぶ手を止め、皿に戻した。
「ポトフは食べながらでも良いから」
私は、ノートをテーブルに広げ、話を始めた。私が冒頭に、「昨日見た夢の事なんだけど」と言うと、母は深刻な話では無いと合点し、大きな口を開けて、ポトフを頬張り、話の合間合間に茶々を入れ出す始末。これは予想通りの反応だった。
しかし、父の反応は私の予想に大きく反していた。 ポトフに手を付ける事は無く、両の手は、太腿の上でグッと握ったまま、真剣な眼差しで、私から決して目を離さない。途中、何か言おうとするが口籠り、言葉が出て来ないといった様子だ。
父の斜め向かいに座る母も、そんな父の平生と違う様子を訝しみ、私の話よりも、むしろ父の方へと注意が向いていた。
話を終えた所で、母が徐に口を開いた。
「あなた、どうしたのよ?」
父の両手は相変わらず膝の上で強く握られたまま、小刻みに震えている。父の視線は私の方に向いたままだが、気のせいだろうか。茫然自失といった様子で、目の奥は、私では無い別の何かを見ている様だ。
「い、いつからだ?」
「えっ?」
私以上に動揺している父を見て、思わず素っ頓狂な声が出た。
「物心ついた時からだけど、夢の内容を覚えてたのはこれが初めて」
「そうか・・・」
父が落胆するのが目に見えて分かった。どうやら、剥き出しの落胆を隠すだけの余裕が今の父には無いようだ。
「父さん、もしかして何か知ってるの?」
「すまない。すまない・・・」
父はテーブルの上で頭を抱えながら、目を伏せ繰り返し、苦しそうに唸った。その謝罪は、決して私では無く、目の奥で見ていた、別の何かに対してだろう。母は父の傍らに立ち背中を優しく擦った。父は母を顧みてコクリと一つ頷いてみせた。「もう大丈夫だから」と言う意汲み取った母は、隣の席へと戻った。そうして、父は再び物思いに耽た。私達の間に沈黙が訪れる。私と母は身動ぎもせず、父がこの沈黙を破るのを待った。
『ガタン!』突として、父が顔を上げ、勢いよく椅子から立ち上がった。その目には僅かだが光が戻っていた。そして、何かに取り憑かれた様に、廊下へと一目散に飛び出した。
私と母は父が飛び出した廊下の方に顔を向けた。どうやら父は何処かに電話を掛けている様だ。普段、声を荒げる事のない父が、珍しく電話の相手に対して、語気を強め、焦っているのか非常に早い口調で何かを話している。普段と違う父の態度に、母は私と同じく当惑の表情を浮かべていた。
電話口から戻った父は私と母に決意の籠った目を見せた。
「二人共、今すぐに外出する準備をしてくれ。詳しい事は車の中で話す」
「そんなの急に困るわ。今日は昼から痩身エステの予約を入れてるんだから」
「悪いがエステはキャンセルしてくれ。そうでないと、お前も俺みたいに一生後悔する事になるぞ」
「だったら何処に行くかとその理由くらい先に説明してくれたっていいでしょ」
「向かう場所は、俺の実家だ。理由は説明すると長くなる。今は一刻を争うんだ。頼むから分かってくれ」
「あなたの実家って事はあなたのお父さんが居るって事よね。私嫌よ、居心地の悪い。あなたのお父さんとは、どうも馬が合わないんだから。会うのは一年に一回で十分よ」
「人手が必要なんだ。頼む。」
「分かったわよ。行けば良いんでしょ。お父さんがそう言うんだから、小夜子もさっさと準備しなさい」
父の強い熱意に母は折れた。ここまで、自らの意志を貫こうとする父も、私が知る限り、これもまた初めてだ。それ程、私の見た夢が、父にとって不穏なものであると言う事なのだろうか。
私は自室に戻り、黒のパンツと、ご当地キャラの豚モンがあしらわれた薄手のセーターに着替えて一階へ降りた。
リビングには準備の整った父の姿があった。母の姿は見当たらない。
「あれ?母さんは?」
「急ぐ様に言ってるんだが、どうやら、パック中だそうだ」
「え~。私達が待ってるのに、パックなんて、わざわざ今しなくったって良いじゃない」
「母さんに言ってくれよ。父さんだってそう言ったんだ。そしたら、朝パックしないと化粧のノリが悪くなるって言って聞かないんだよ」
「呆れちゃうわ。て事は、そこからメイク始めたら、私達いつ出発出来るのよ」
私はのんびりしている母に文句を言うべく、母の部屋に向かった。ドアを開けると、鏡越しに母と目が合った。年に似合わない鮮やかな赤い口紅を塗ってる最中だ。
「ねえ母さん!父さんも私も待ってるんだから早くしてよね。母さんがメイクしようがしまいが、そんなの誰も見て無いんだから、自意識過剰にも程があるわ」
「小夜子。あんた正気なの?」
母は大きく目を見開き、動揺して手が滑ったのか、引いていた紅があらぬ方向にまで伸びた。
「正気もなにも、私は民意をありのままに伝えてるだけなんだから」
「民意って、それはつまり、誰かが私の陰口を言ってるの?それは誰なのよ」
母は私の肩を掴み、激しく揺らす。
「特に誰って事はないけど・・・」
「小夜子。隠し立てしないで、吐いちゃいなさい」
そこへ痺れを切らした父が現れた。
「二人とも何やってんだ。いいから行くぞ!」
外に出ると、日も差しており温かい。私達は車庫から五人乗りの乗用車に乗り込んだ。三人で出掛ける時には、運転席には父、助手席にはペーパードライバーの母。後部座席には私といったのがお決まりであった。
しかし今回は、車中での話の中心が私だからと言って、父が私に助手席に座るのを勧めた。
車は開けた大通りに差し掛かった。そこで、ようやく父は口火を切った。
「二人共、急かせて済まなかったな。しかし、どうしても・・・」
「大変!」
父の大事な話を割って母が大きな声を上げた。母の声に驚いた父は思わず急ブレーキを踏みかけた。
「どうしたんだ?」
「ポトフを冷蔵庫に入れるのを忘れてたわ。あなた今すぐウチに引き返して!」
母さんが後部座席から身を乗り出して言った。
「ポトフなんて今はどうだっていいでしょ。父さんがこれから大事な話をするんだから、話の腰を折らないでよね。父さん気にせずに続けて」
一呼吸置いて、父は口を開いた。
「お前達は、これから私が話す内容に関して、全く要領を得てないじゃないかと感じるかもしれない。しかし、そこは容赦してくれ。なんせこの私も、事の次第を正確に理解していないのだから」