弐
北村小夜子は仄暗く狭い、石畳の古びたトンネルの中に佇んでいた。静寂に包まれたトンネルは、得体の知れぬ不気味さを内包している。どうして、こんな薄気味悪い、息苦しい場所に立っているのか、ここに至るまでの記憶の一切が抜け落ちている。それだけじゃない。自分が何者なのか思い出せない。私という存在は、まるで薄っぺらい紙切の様だ。
周囲を見渡すが、照明らしき物は、何一つ見当たらない。しかし、ここが完全な暗闇という訳ではない。壁面に、苔が生えているのも見て取れる。天を仰ぐと、内壁の隙間から微かに月明かりが差し込んでいた。
足を一歩踏み出すと、鼠色のみすぼらしい着物の裾に泥が跳ねた。もしかして私は、着物を着慣れてないのかもしれない。
つと、この体が自分の体ではないのではと、そう感じた。月明かりに手を翳してみる。その指先はひび割れ、血が滲み出ていた。手の先からゆっくりと身体全体に視線を巡らせると、無数の切り傷や青痣が刻まれている。どこで怪我をしたのか全く記憶にない。
じっとしていても仕方ないので、私はトンネルの出口を目指した。
もう随分と進んだはずなのに、景色は一向に変わらない。先の見えない状況に、不安と焦りは募るばかり。しかし、先に進むに連れて、気のせいだろうか、空気が冷たくなるのを感じる。
それはまるで、見えない何かが、私の行く手を阻むかの様だ。
不意に、無機質な空間の中に、何かが現れるのを感じた。
「コツ・・・」
何の音だろう?
思わず足を止めた。
「コツ・・・、コツ・・・」
音が止んだ。そう思った次の瞬間。
「ダダダダダーーーー」
けたたましい足音が、静寂を破り、トンネル内を駆け巡った。
全身の毛が逆立ち、体中の血管が激しく脈打つ。
は、早く逃げなきゃ!
怖くて後ろは振り向けない。
どうして??なんで私なの?沢山の疑問符が頭の中を駆け巡る。
カラカラに渇いた喉から、声にならない声が漏れる。
心臓が早鐘を打つ。
捕まったら殺される。
なぜそう思ったのか説明は出来ない。それに、この直感を無視する勇気を、残念だが、私は持ち合わせていないのだ。
私は脇目も振らず、一心不乱に出口を目指して走った。
迫り来る足音は、衰えを知らない。そればかりか、間違いなく私との距離を詰めている。身を隠せる場所はどこにも見当たらない。
「イヤー!来ないで!」
このままじゃ追い付かれちゃう。出口まではどれ位あるのよ!
一寸先の壁面が赤銅色に染まっているのが遠目から見えた。それが何であるかを、私は知っている。これは渇いた血だ。どうして、血だと分かったのかは自分でも説明は出来ない。でも間違いなくこれ血だ。そう、人の血だ。夥しい量の生々しい血がそこかしこに飛び散っている。
『タスケテ』
『ドウシテナノ?』
『・・・ゴロウサン。ゴメンナサイ。オネガイダカラ、コロサナイデ』
これは幻聴だろうか。縋りつく様な悲痛な声が、方々から幾重にも重なって聞こえる。
「何なのよ、助けて欲しいのは私の方よ!誰だか分からないけど、あなた達が私を助けてよ!」
耳を塞いでも幻聴は鳴り止まず、先に進むに連れて大きくなる一方だ。
「キャッ!」
何か固い物に躓き、激しく突っ伏した。
焦りが体を蝕む。
早く、早く逃げなきゃ。
立ち上がろうにも、ぬかるみに足を掻くだけで、一向に立ち上がれない。
迫り来る足音は緩徐となる。それは即ち、標的との距離が縮まり、走る必要が無くなった証拠。
恍惚の様相を呈した鼻歌が、トンネル内に木霊す。ヴィヴァルディの『春』。
「イヤーーー」
半狂乱になり、泥まみれの掌を、両耳に強く押し付ける。
い、息が苦しい。呼吸もままならない。
鼻歌はサビに差し掛かり、高々と響き渡る。その不気味な旋律は見る見る私の体に絡みつき、逃れさせてはくれない。
その時、頭に雷が走った。
そして、瞬時に理解した。自分が誰なのか、何を成すべきかを。
そうだ、これは夢なんだ。夢なんだから、もう何も怖がる必要はない。散々私を追い回して、脅かした奴に一泡吹かせてやる。
しかし、極限まで研ぎ澄まされた私の精神は、その行動は恐ろしい事態の引き金となる事を予見している。
どちらにしても逃げ切れないんだ。だったらせめて、一矢報いてやるんだから。
決意を固めた私は、右手で掴めるだけの泥を目一杯を掴んだ。そして、両腕で地面を支えながら上体を起こし、ゆっくりと後ろへ向かって身を捻った。
ここはドコ?
私は月明かりも無い、暗闇の中に居る。目を瞠り、周囲を見渡す。今更ながら、背中に柔らかな物が触れているのを感じる。
ベッドの上だった。着ているネグリジェは汗でぐっしょりとして不快な感触だ。今何時なんだろう。寝る前に横に置いておいたスマホに手を伸ばした。電源を入れようとするも、中々ボタンが押せない。手が小刻みに震えている。普段なら難なく出来る日常の動作なのに、なぜだか思うように体が動かない。手からスマホが滑り落ち、その拍子に運よく電源が入った。体を捻じり、やっとの思いでフローリングから拾い上げた。
十月十四日、午前四時三十分。
不意に、頭の中にトンネルの映像が飛び込む。
呼吸が苦しくなる。頭に酸素がうまく回らず、意識が朦朧とする。このまま目を閉じて、再び眠りに落ちれば、きっと楽になれるだろうな。だけど、それはとても危険な気がする。 兎にも角にも、記憶が薄れる前に、さっきまで見ていた夢の内容を整理しなくちゃ。
そう。振り返るまでは良かった。問題はその後だ。だが、振り向いた先に何を見たのか肝心な所が思い出せない。それがとても悍ましいものであったのは間違いない。
今回の夢は今までとは違っていた。
私は今回に限って、眠りに落ちるまで、はっきりと悪夢に立ち向かう覚悟を持っていた。だからこそ、悪夢の正体を見極めるべく、振り返るという勇気の必要な決断が出来たのだ。
それだけじゃない。一番の相違点は、今までの私は夢の中の出来事を、ほんの僅かでも覚えていた試しが無かった。だけど、今回はトンネルの苔やその細部に至るまで、はっきりと覚えている。
嫌な予感がする。私一人だけじゃ抱えきれない。
信じてもらえるか分からないけど、夜が明けたら、父さんと母さんに相談しよう。