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トンネル  作者: 佳樹
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 幼少の頃から私は、悪夢に悩まされていた。

 悪夢が訪れるのは、例外なく決まって十月十三日の夢の中。夢から覚めて、どんな内容だったのか、思い出そうとするが、全く思い出せない。しかし、漠然とした恐怖の残滓の様なものだけは、確実に脳裡に刻まれる。

 この悪夢に対して、これまで全く対策を講じなかった訳ではない。寝ないように夜通し体を動かすといった方法も試みた。

 しかし、悪夢は決して私を見逃してはくれない。夜が深くなるに連れ、抗うことの出来ない激しい睡魔に襲われ、所構わず否応なしに深い眠りに落ちてしまうのだ。

 それでも、抗わずにはいられない。私は家族が寝静まった後、こっそり家を抜け出し、朝まで外を散歩したりもした。今回は大丈夫だろうと思ったが、結果はいつもと同じ。耐え難い睡魔に襲われ、そのまま倒れる様にして眠ってしまったのだ。たまたま倒れた場所が叢の上だったから良かったものの、これがもし、固いアスファルトの上だったらと思うとゾッとする。


 去年は、これまでにない、大胆な試みに出た。

 悪夢を見てしまうのは、何か良からぬものに取り憑かれているのが原因では無かろうかと思い、父と母と連れ立って、名高い僧侶が居ると噂のお寺へお祓いに行ったのだのだ。父の運転する車で自宅から一時間。その道中、母は、「うら若い娘が、お祓いに行きたいだなんて、どうかしてるわ」と、呆れ返っていた。

 この母を説得して、お祓いに行く許可を得るのに、どれだけ私が苦心した事か。はっきり、それと分かる実害を受けていたのなら、すんなりと許可を得られたかもしれない。しかし、私の身に、何か具体的な霊的現象が巻き起こったり、大きな災いが降り掛かったりした訳じゃない。ただ、毎年決まった日に、得体の知れない怖い夢を見ただけに留まるのだ。

 もし、その事実だけを伝えていたら、母はきっと、「怖いドラマの見過ぎよ」と一笑に付してそれまでだったろう。その恐怖は、実際に経験した人にしか分からない。私が言葉でどんなに必死に訴えても理解を得られることは無いだろう。

 うちでは、財布の紐は母が握っている。お金が必要な時には、母という強固な牙城を攻略しなければならないのだ。

 そこで私は一計を案じた。外堀から埋めていこう。私は祖父が孫娘に対する深い愛情を巧みに利用する事にした。母の生家に里帰りした時には、祖父は、いつも私に対して、「どこの女優さんが来たかと思おたら小夜子か。しばらく見んうちに、また一段と可愛くなりおって。おじいちゃん、小夜子だったら、目に入れても全然痛くないぞ」と豪快に笑いなが言う。祖父のフィルターを通して見た私は、どうやら、日本で一番、いや、世界で一番可愛いらしい。その時決まって傍にいる母に向かい、「お前を目に入れたら、目ん玉が潰れるわ」と、これまた豪快に笑いながら言う。母は冷ややかな視線を祖父に向け、「人間が目なんかに入る訳ないじゃない。馬鹿じゃないの」と吐き捨てるように言う。だからと言って、母と祖父の仲が決して悪い訳ではない。こうして悪態をつき合うのが、二人の昔からのコミュニケーションなのだ。

 男手一つで、自分を立派に育て上げた父に対して、母は一度たりとも、尊敬の念を忘れた事がない。だから母は、祖父が何か頼み事をした時には、決して無下に扱わない。祖父もまた、母に何か頼まれると、ブツブツ文句は言いながらも、決して断る事はない。

 私は電話で祖父を泣き落とし、祖父を通じて母を説得して貰ったのだ。二人に対して、多少の罪悪感も感じた。罪悪感と恐怖の二つを秤にかけてみても、恐怖の方が、圧倒的に私にとっては耐え難いのだ。


 目的のお寺は閑静な住宅街の一角に建立されていた。

 鮮血をイメージさせる、紅色の門扉。その上には、赤い目をした薄気味悪いカラスの一群が、眼下に私達を見ている。突然カラス達は、一斉に威嚇する様な、けたたましい鳴き声を上げ、バサバサと音を立て、飛び立った。私は思わずたじろぎ、腕で顔を覆った。

 カラスの脅威が去ったのを感じ、腕を下ろすと、いつの間にか、目の前に小坊主が立っていた。小坊主は私達を客間へと案内した。客間の扉を開ける、そこには目を疑うような豪奢な調度品が並べられていた。部屋全体に敷き詰められたペルシャ絨毯。場違いな大理石の長テーブル。なめし革の肘掛け椅子が八脚。仏教の戒である、不殺生戒はどこへやら。お寺と言えば質素なイメージだったのに、その部屋は高そうな調度品ばかりが並んでいた。母は、指で父をつついて、「このお寺、煩悩の塊ね」と吐き捨てる様な口調で言った。父と私は苦笑いした。

 そうこう話していると、「コンコン」と戸がノックされた。「どうぞ」と母が応えると、威厳に満ちた、緋色の法衣を身に纏った老齢の住職が扉の前に姿を現した。テーブルの奥の椅子に腰を掛けた住職は、挨拶もそこそこに、お祓いのプランに関しての説明を始めた。そこで、顧客満足度が九十九パーセント以上である事、リピート率が高い事を頻りにアピールした。

 そもそも、リピート率が高いという事は、完璧に除霊し切れず、失敗したからではないのかと、いささか疑問に感じる。

 住職は、居酒屋の店長がメニュー表の、店長おすすめメニューを勧めるかの如く、住職おすすめプランなるものを提案した。この五万円もする高額なプランに、母は人の弱みに付け込んだ外道住職やら、悪徳寺やら、賽銭泥棒やらと、思い付く限りの罵詈雑言を喚き散らした。母の右横に座っていた父は、唾を飛ばしながら捲し立てる母の怒号にビクリとして、肩を竦めた。左横に座る私は、恥ずかしさで顔から火が出る思いだ。茶を運んで来た小坊主はその剣幕に圧倒され、お盆を持つ手が震えていた。

 しかし、母に正対する住職は全く動じない。数多くの悪霊とも対峙してきた経験の豊富さもあるのだろうか、厳めしい表情は全く変わらない。白く長く垂れ下がった眉をピクリとも動かさず、お祓いを蔑ろにした場合の身に降り掛かる災いを厳かな口調で言って聞かせた。その姿は、屁理屈ばかりを捏ねる、聞き分けの無い小学生に対して、筋道立てて分かり易く、何がいけないかを教える教師の姿を思わせた。

 住職は、私だけに止まらず、父や母も含めて、一家全員に何か良からぬモノが取り憑いていると、つと私達家族の奥に居る何かに視線を向けながら強い口調で言った。私達は反射的に、住職が見ている方向に首を向けた。しかし、霊感の無い私達には当然何も見えない。

 そして、ダメ押しの一言とばかりに、「僅かなお金をケチったが為に、あなた方に、大きな災いが降り掛かっても、私は知りませんからね」と、ピカピカに輝く金歯を覗かせながら、不敵な笑みを浮かべた。

 「ガタン!」住職の背後の壁に飾られていた、豪華な絵画が何の前触れも無く落下した。

母は身震いし、視線も忙しない。先程までの威勢の良さは、すっかりと鳴りを潜め、その姿は、捕食者が去るのを、巣穴の中で怯えながやり過ごす小動物を思わせた。

 父はと言えば、落下した絵画には目もくれず、相変わらず視線は住職の坊主頭に釘付けだった。

 そう、父は甲子園を目指していた高校時代を、住職の坊主頭から想起していたのだ。

仲間と共に汗と涙を流した懐かしい思い出の日々。父は野球部のマネージャーとして、他の部員の汚れたユニフォームを洗い、来る日も来る日もボールの一つ一つを丁寧に磨いていた。父は目頭が熱くなるのを感じ、「いかん、いかん」と首を横に振り、絡み付く思い出を振り払った。

 住職は自らの罪無き坊主頭から、こうして父が遠い夏の日に思いを馳せていたなど、露とも知らないだろう。

 住職は父の正体不明の熱い視線を肌で感じながらも話を続けた。「人に危害を加る霊が除霊を拒んで、こういう事をよくやるんですよ。」住職は淡々と言った。母は縋る様な顔で、住職に救いを求めている。「一人につき五万円。三人ですので十五万円ですが、いかがでしょう。」母は二つ返事で、宜しくお願いしますと深々と頭を垂れた。父は母とは対照的に十五万円という大金に蒼褪めていた。

 父は昨夜やっと母を説得して、買う事を許されたゴルフクラブの話が、白紙に戻されるんじゃないかと懸念を抱いていた。この数週間、ゴルフクラブを買う為に、どれだけ父は、恥も外聞も捨て、母のご機嫌取りに勤しんだ事か。

 父はせめて自分のお祓い費用だけは浮かそうと、私達二人だけでお祓いをするように勧めた。しかし、母は「悪霊が取り憑いてる人と一つ屋根の下で暮らすなんてまっぴら御免だわ。それにもし、あなたに憑いてる悪霊が、気紛れを起こして、私に取り憑いちゃったらどうすんのよ」父の提案はあっけなく却下された。「昨日のゴルフクラブを買うって話はちゃんと守ってくれるよな」すると間髪入れずに母は、「それは昨日までの話。状況は刻一刻と変わるのよ。これからの時代、変化に対応出来なくてどうするの。それに、あなたのゴルフの腕前じゃ、クラブか変わったからってスコアも大して良くなんないわよ。今使ってるのが、壊れた訳じゃないんだから、なにも無理して新しいのに買い替えなくていいでしょ」母は最近購入した、お高めのバングルを付けた腕をブルブル振りながら言った。

 こうなってしまっては、テコでも動かない。その事は父も私もよく知っている。父がガックリと肩を落とした。その姿は何だか気の毒にも思える。私がお祓いに行きたいって余計な事を言わなければ、父は新しいゴルフクラブを何の障害も無く手にする事が出来たのに。父さん、ごめんなさい。


 私達は住職に導かれるがまま、本堂へと足を踏み入れた。薄闇の中でも分かる金箔であしらわれた目の眩む煌びやかな仏壇。厳めしい不動明王。その手前には護摩が焚かれ、荘厳な炎が立ち上っている。

 全てを見抜く様な不動明王の視線が刺さり、思わず畏怖の念から背筋が伸びる。もしかすれば、私に取り憑いているという何かは、恐れを成して、どこかへ消えてったんじゃないかとも思えた。

 私達は端座し、住職の準備が整うのを待った。いつも賑やかな母も、この時ばかりは、無言で静かに目を閉じ、心を落ち着かせていた。足袋が畳を擦る音が聞こえる。住職はゆっくりと「よっこらせ」と、母の隣に腰を下ろした。てっきり住職がお祓いをしてくれるのだと信じて疑わなかった私達は、困惑を隠し切れず、お互いに顔を見合わせた。

 そこへ、先程お茶を運んでいた小坊主が、体格に全く合っていない、新調したてと思われる、ブカブカの黄土色の袈裟を身に纏って現れた。小坊主は私達の前の座布団。住職が恐らく座るであろうと思っていた座に腰を下ろした。母は状況が呑み込めず口をぱくぱくしている。父は住職の坊主頭だけに飽き足らず、小坊主の坊主頭にも思いを馳せている。住職は先程までの威厳は消え失せ、満面の甘い笑顔で小坊主にエールを送っている。小坊主は大きく息を吸い込み「あ、あ、あくりょう、たいさん!」と、声変わりしてない甲高い声で言い放った。こんな可愛らしい声で悪霊が退散するものか。住職は手が腫れ上がる程の猛烈な勢いで、小坊主に拍手を送っている。「除霊はこれにて終了」威厳に満ちた表情で、住職が口上を述べるや否や、母は「この、なまくら坊主が!」と、声を上げ、住職に飛び掛かった。住職はそんな母を腕で押し退け、いち早く小坊主に躙り寄り、抱きしめ、頬ずりした。「たっくん、よく出来まちたね~。とても初めてとは思えない立派な除霊でちたよ~」「うん。ジイジ、たっくんエライでしょう」私は孫パワーの恐ろしさを痛感した。どうやら住職は、孫が気まぐれで、除霊をしたいと言ったのを断れなかったらしい。これは、祖父をうまくやり込めたと勘違いしていた、私への天罰なのだろうか。

 当然、悪夢が消えるはずなかった。それどころか、ふざけた除霊のせいで、悪霊やら何やらの逆鱗に触れたのか、その後の約一年もの間、私達一家に、約十年分の数多の災いが降り掛かる事となったのだ。


 今日の私は、今ままでの、ただ悪夢に怯えるだけの私とは違う。十五歳の高校生になってやっと、悪夢に立ち向かうだけの覚悟が出来たのだ。

 私の住まいは、二階建ての一軒家。一階には母と父の居室がある。さっきトイレに行った時に、部屋の前を通ったが、ドアの隙間から明かりが点いてる様子も無かったし、その代わりと言っては何だが、母の大きないびきが聞こえたので、少なくとも母は今時分は寝ているのだろう。いつもは不快に感じる、この煩いいびきが、今日に限っては安らぎを与えてくれる。

 二階の私の部屋は、脱ぎっぱなしの服や、食べかけのお菓子の袋がそこかしこに散らかっている。無精な性質は、きっと母譲りだ。日々、散らかる部屋をよそ目に、足の踏み場が無いって訳じゃないし、まあいいかと、見て向ぬ振りをしてきた。母も片付け下手で、私に強く出る事が出来ない。そういう時は、キレイ好きの父を陰で操り、「そろそろ片付けた方がいいんじゃないか」と、言わせる。父は私にこっそり、「実は母さんから頼まれてるんだ。父さんもたまには、母さんにいいとこ見せたいから。頼むよ小夜子」そうして私は、父の顔を立て、重たい腰を上げるのだ。普通の人は部屋が汚いと、友人を招くのも憚れるが、私はそこの所、全く気にしていない。

 この前、同じクラスの女の子達を部屋に招いた時に、こんな一幕があった。

 最初、彼女らは私の部屋を見て、二の足を踏んでいた。その日は特にフローリングの床が溢れた衣類やらお菓子の袋やらで見えなくなる程だった。足の踏み場もなく、皆立ち入っていいものか困惑の表情を浮かべていた。見兼ねた私は、お洋服も踏んじゃって構わないからと、助け舟を出した。唯一くつろげるベッドの上に皆が座り、他愛もないおしゃべりに興じた。

 友人数名が、「お菓子やお洋服に囲まれて羨ましいわ」と、本人達は気付いてないが、どこからどう見ても、羨ましさなど微塵も感じてない、引き攣った顔でそう言った。そんな彼女達の悪気の無い、純粋な善意に対して、ちょっぴりイタズラしたくなる。

 部屋の中にある、大量のお菓子の袋の中から適当に一つ、いつ開けたかも覚えていない、スナック菓子を口に運んでみせる。彼女達にも同じお菓子を勧めるが、皆一様に口を揃えて、「ごめんね、小夜子ちゃん。さっきご飯食べたばかりで、今はお腹いっぱいなんだ」と、何とも言い難い、複雑な表情でやんわりと断りを入れる。そこで私は、「もー、本気にしないでよ。冗談だから」と、おどけて、その場を和ませる。私にとってはリスク以外の何者でもない、この他人から見たら下らないイタズラによって、辛酸を嘗めることもある。先月に至っては、いつ開けたか分からないシュークリームによってお腹を下し、散々な目に遭ったのだ。

 そんな部屋であっても、私にも自慢出来るものが一つだけある。それは、ベッドの周りに並べているぬいぐるみ達だ。山積みとなった、このユーフォーキャッチャーで取ったぬいぐるみ達は、悪夢の影に怯える私に微かな安らぎを与えてくれる。

 私はぬいぐるみの山の中から、二足歩行のウサギのぬいぐるみを手に取り、ウサギの気持ちになって一人二役で会話する。

 「小夜子ちゃん。怖がらなくて大丈夫だよ。小夜子ちゃんの事は、必ず私が守るから」

 「ありがとう、うさちゃん。悪夢が来たら、すぐ駆けつけてね。約束だからね」

 「うん。必ず行くから安心して」

 周りには誰も居ないが、なんだか小っ恥ずかしくなった。それに、なんの慰めにもならない。ダメダメ、気を取り直そう。

 「もう悪夢なんか恐くないわ。さあ、どこからでも掛かって来なさい!」自らを奮い立たせる。虚勢であることを見抜かれたかも知れない。だけど、こうでもないと、またいつもと同じことの繰り返し。今日の私は今までとはワケが違うんだって所を見せなきゃ。それに、悪夢は詰まるところ、弱い私の心が生み出した可能性も捨て切れないから。

 私はベッドに勢い良く仰向けになった。天井の電球は明々と部屋全体を照らしている。いつもは電気は消すのだが、この日だけは消すのが恐い。どんなに決意を固めたと言っても身震いもする。私は恐怖心を跳ね除ける為、布団を頭から被った。淡いピンク色のネグリジェの下から、薄っすらと汗が流れた。なのに、身体の芯から来る寒気は一向に引かない。

 「気持ちから負けちゃダメ!」

 そうこう考えていると、普段と違う、十月十三日特有の睡魔が目と鼻の先まで迫っているのを感じた。薄れ行く意識の中、時計を見る。二十三時四十分。



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