ナターシャの過去、腐れ剣客動く
「お姉ちゃんがここの奴と契約したのは、全部アタシが原因なの……」
牢屋の檻の前で俯いたナターシャ。
彼女はとつとつと喋り出す。
「お姉ちゃんが施設の運営資金や病気の子供のために薬を買うのに、大事な指輪を預けたってのは知ってる?」
「ああ、その話なら本人から聞いた」
「だよね、ここまで大事になってるのにお姉ちゃんが話してないわけがないか」
そしてぐっと檻の鉄棒を握りしめ、何でもないかのようにいう。
「なら、その病気の子供がアタシだったってのは聞いてる?」
そうしたのは彼女のせめてもの矜持か。
それとも騒ぎ立てる資格がないとでも考えてのことか。
固く表情を変えず、口調だけは軽いまま。
ナターシャは自分の過去をつまびらかにしていく。
「まあ、これは聞いてるわけないよね。だってお姉ちゃんがそんなこと言うわけないもん」
顔を見せたくないとでもいうように体を反転させ、檻に背中を預けるナターシャ。
「アタシさ、昔は施設にも入ってなかったような筋金入りの孤児だったの。両親の顔も知らないし、いつもお腹を空かして路地裏で雨風凌いでさ。
食べれるものはそれこそ腐ってようが何でも食べたよ。
そうしなきゃ死んじゃうのが分かってたから」
ぶらぶらと足を動かし、気を紛らわせながら。
「でもさ、やっぱり拾い食いは良くないね。
ある日へんな物食べたせいで耐えられないくらい体調がおかしくなった。頭がガンガン痛くなって、お腹は溶けるんじゃないかってぐらい熱くなって、それでどうしようもなくて誰も居ない町の片隅で踞って、このままアタシ死んでいくんだろうなって――そう思ってた時、お姉ちゃんが現れたの」
そして嬉しそうに――そういうのだった。
「ゲロとか吐きまくって滅茶苦茶に汚れたアタシをさ、何の躊躇もなく抱き抱えて走んの。あとで目が見えないって知って凄く驚いたなぁ……だってさ、普通こんなお荷物抱えてたら目が見えてたってスッ転んだりするじゃん。でも壁にぶつかったりとかもそんなの全然なかったんだよ」
思い出す。
冷たい地面でのたうち周ることもできず、ゆっくりと死に向かっていくあの時のことを。
そしてそこから救い上げてくれた、あの人の手を。
「お姉ちゃんの腕の中、暖かくってさぁ。
ああアタシにも家族が居たらこんな感じだったのかなって、何ていうか……これで死んでもいいなって本当に思ったんだその時」
いつも一人で、他人から与えられるのは常に冷たい視線。
手酷い暴力に晒されたこともある。
でもそれで死にたいだなんて思わなかった。
だけど――人の暖かさに触れて、満足した。
ナターシャという少女はたったそれだけで満たされたのだ。
「でもさ、お姉ちゃんはそうじゃなかった。
見ず知らずの薄汚れた子供一人、見捨てることも出来たはずなのにさ。高い薬まで買って、それで経営が苦しくなってそれで……それでも」
それなのに。
それだけでよかったのに。
クレーリアはそんなナターシャを見捨てなかった。
そして彼女の救われた子供たちもまたそうだ。
「それでもっ、あなたが生きていてくれてありがとうって……!
周りのみんなも生活が苦しいのに笑顔で、優しくって……!」
そしてその時初めて、彼女は人になったのだ。
「アタシに家族をくれたんだよ!
居場所をくれたんだよ!
それも全部! お姉ちゃんのお陰なんだ!
これでさぁ! ここでお姉ちゃんに恩返しができなきゃ!
アタシ――生きてる意味ないよ!!!」
叫ぶ。
思いの丈をぶちまけるように。
恐怖を振り払うように。
「だからやる。
お姉ちゃんを助けるためなら――この命だって惜しくない」
覚悟なら――もう決まってるから。
そしてその言葉は何も違えることなく実行されることだろう。
それほどの思いが込められているのを、鴎垓は頭ではなく心で理解した。
そしてそれは、決して誰にも明かしていない彼の過去。
それをどうにもくすぐって仕方がない。
「はぁ……ええのう、お前。格好ええのう」
話を終えたナターシャへしみじみと、そのようなことを言う鴎垓。
まるでからかうように見える態度に、ナターシャは当然いい気はしない。
「何? おちょくる気?」
「いや、惚れた」
「へ?」
が、しかし。
鴎垓から放たれた言葉は予想外のもの。
あまりに状況に合わない内容に思考が乱される。
こんなとこに一体何を――などと考えて実はまんざらでもないような微妙な感情に支配され顔が紅潮し、
「その腹の括りよう、惚れたと言わざるを得ん」
「――って、え?」
そしてまあ、案の定というか。
思わせぶりな言葉の意味はあくまで戦士としての心構えについてのこと。
本人にはそんなつもりが一切ない様子でいきなり起き上がる。
「いやな、かくいう儂も尼僧というやつには恩がある。
いやはや因果なものじゃな、かつては仇で返したものを正しく恩にて返す機会に恵まれるとは」
「……ああそう。で、ちょっと殺してもいいかしら」
勘違いの恥ずかしさに少々過激な思考に支配されるナターシャ。
鴎垓はそれをさして気にした様子もなく、勝手に話を進める。
「故に小娘、いやナターシャよ。
引き留めさせて悪かったの、だが今よりこの儂が――お前に協力しよう」
しかし、その宣言が。
その堂々とした姿が。
血塗れで、土を被って汚れていて。
負けて、傷を負って。
それでも。
こんなにも頼もしく見えるのは何故だろう。
「……そうは言っても、どうするつもり?
手伝ってくれるのは嬉しいけど、武器もないどころかそこから出られるかも分かんないじゃない」
いやいや、アタシは何てことを考えてるんだ。
ちょっとキュンとした――そんな風に思ってしまったことを恥じるようにつんけんした態度を取るナターシャ。
「そこはほれ、お主がどうにかできるんじゃろう?」
「いや、出来ないけど」
「ん?」
どうにも話が噛み合わない。
鴎垓のその視線に灯りに照らされた顔に冷や汗を流しながら目を逸らすナターシャ。
「いや、あの……さっきのはそこまで何も考えずに言ってたっていうか……つい勢いで頼んじゃったっていうか」
「なんじゃ、つまり儂をここから出す手段も何もないのに助ける手伝いしろと言っておったのかお主」
「う、うぅ……し、仕方ないじゃん!
顔見知り程度でも仲間がいたら声かけたくなるじゃん!」
いたたまれなくなった彼女はそのままふんと顔を横に向け、当てにしていたものが空手形であったことに呆気に取られながら、やれやれといった感じで立ち上がる鴎垓。
クレーリアの必死の治療のお陰か、その動きはかくしゃくとしている。
「ったく、そうならそうとさっさと言えい。
余計な時間を食ったではないか」
檻の前に立った彼はそれぞれの手で一本ずつ、二人を阻む鉄棒を掴む。
そして――
「いやそれアタシが悪いんじゃ――って、え?」
「ふっ! う、うぅ……!!」
ギリギリと音を立てて軋む鉄棒。
両腕に渾身の力を込める鴎垓の意思に従うようにゆっくりと歪み、徐々に隙間が広がっていく。
「え、嘘……」
「う、うぅぅおらぁぁあああ……!!!!」
咆哮をあげながら遂に人一人が出ていけるほどの隙間を広げた鴎垓。
ふぅと息を吐き、軽快な足取りで檻から出てくるのをあり得ないものでも見るような目で見るナターシャ。
「すご……一人で出てきちゃった」
「うっし、調子がええわい。
んじゃいくぞ」
肩を回し調子の良さをアピールする鴎垓に圧倒され、しかしはっと正気に戻るナターシャ。
「あ、ああうん。お姉ちゃんたちはこっち! 案内するから!」
「ああ済まんがちっと待て、本丸に攻め入る前にやることがある」
「やること? あ、武器の調達とか?」
さあいくぞとなりかけたところに待ったを掛ける鴎垓。
「それもあるが――もっと面白いことじゃよ」
灯りに照らされたその顔。
まるで頭に浮かぶ悪巧みをそのまま表したかのように、酷く歪んで影を作り出していた。
それを横から見るナターシャ。
襲いくる不安感の正体を知った時、何故あの時止めなかったのかと後悔するのだが、それは先のお話。
後悔先に立たずとはよく言ったものである。
とにもかくにも。
こうして腐れ剣客は再び立ち上がった。
出会いに起因する因縁を絶ちに。
いざやゆかん。