腐れ剣客、来慣れた見慣れぬ精神の世界
「――んぁ……ああ?」
鴎垓が目を覚ました。
うつ伏せになった体勢から、起き上がり。
体の傷が消えていることと。
そして周囲を見て、何かがおかしいことに気付く。
全面、黒一色。
どこまでも続く地面と同色の空。
幾本もの白線が均等に、前方後方左右に無限に引かれ。
一見すると無数の真四角の板によって構成されているように見える。
明らかにおかしい場所。
しかし鴎垓に混乱はない。
何故ならこのどこか現実離れした感覚は――慣れ親しんだ”精神の世界”のものだからだ。
「はて、どうやらここは儂の中のようじゃが……」
鴎垓は目覚めたここが、自分の精神が作った世界ではあること。
それ自体は何となくだが理解できる。
だが、それにしてはおかしい。
「とんと知らんな、なんじゃいこりゃ」
鴎垓の精神の世界は基本、世話になっていた道場を中心として周囲に様々な環境を再現し、円のような形に配置し構成されている。
空だって青いし、色合い鮮やかでそこまで現実と解離したものではない。
しかしここはその反対、どこもかしこも黒一色。
何もない。
殺風景甚だしい。
そのせいか地面の感触もどことなく無機質に感じてしまう。
まあやろうと思えば砂漠だろうが海だろうが山だろうが森だろうが、何だって出現させることができるのだ。
だから今さら地面がどうの周囲がどうのと、騒ぎ立てるのは馬鹿らしいというかなんというか……。
「んー……だがこれは儂がやったのではない、一体これは……」
しかし、ではどうしてここはこんな風になっているのか。
その疑問だけはいかんともし難く、いつぞやのように座り込んだ体勢のまま頭を傾げる鴎垓。
禅法”寝禅”――精神世界への入没はこの技は自分の意思でしか行えないはず。
先程までギースとかいう槍使いと戦い、不覚を取ってしまい夥しい量の血が流れ。
そして意識が途絶えたところまでは覚えているのだが……あの瞬間に何かがあったのだろうか。血を失いすぎて朦朧としていたからか、あれからどうなったのかまるで分からない。
いつの間にここへきたのだろうか。
外は、クレーリアは一体どうなった?
「ふむ、しかし……」
早く目覚め、彼女を救わなくては。
そういう思いはあるものの、この空間について興味がないと言えば嘘になる。
そこでふと思い付いて、いつものように念じてみる。
すると瞬時に目の前の空間が歪み、一振りの刀が出現した。
それは鴎垓が死に際まで愛用していた一刀。
空間に浮かぶそれを手に取り、想像していたものと寸分の狂いもないのを確かめる。
「うむ、どうやらこれはいつも通りのじゃ。
となるとやはり、ここは儂の中ということになる」
ぴっと刀を振るい、反対の手の中に鞘を出現させた鴎垓はそれに刀を納め腰に差そうとし、自分の格好が生前のものではなくさっきまで着ていた現実の世界のものであることに気付き、どうせならと服装も変えることにする。
「ん、やはりこちらのほうがええな。落ち着くわい」
それは以前、レベッカを救いに【墜界】の核の中に侵入し、過去の出来事を再現する敵と戦っていたときに身に纏っていた墨色の着流し。
フランネルから貰った試作の服はそれはそれで動きやすかったが、慣れ親しんだ格好は格別なものである。
腰の帯との間に刀を差せば、それでようやくいつもの、生前と言っていいのかよく分からない頃の姿になる。
「さぁて、どうやら色以外は違いがあるようにも見えんし、どうせじゃからちょいとやるか」
ここに来れたということは少なくとも、自分はまだ生きているということである。
それならばまた、あの槍使いと戦う機会は必ずあるはず。
備えるのに越したことはない。
丁度いいことにここは全てが叶う世界。
――ゆらり。
空間が再び歪む。
そこから出てくるのはどこか精細を欠く表情をした一人の男。
これもまた鴎垓の想像が生み出した存在――その名も”達人案山子”という。
現実の人物を参考にした木偶人形。
鴎垓の意のままに動き、されどその実力は本物とそう変わるものではない。
ある人物を参考にして生み出された男は指示された動きに沿い、手に持つ武器を構え鴎垓へと向き合う。
「ほいじゃ――ちょいと死んでみるか」
そういって鴎垓は、その男に向かって刀を抜き襲い掛かる。
迎え撃つように武器を振るい、鴎垓と男の間で火花が舞い散る。
幾度かの衝突の後、鴎垓の刀が大きく弾かれる。
続く連撃――狙われた腹部は防御のために差し出した腕ごと貫かれた。
「ぬぅ……」
それによって一旦、戦いに小休止が入る。
穴の空いた腹、千切れ掛けた腕。
誰の目から見ても致命傷――しかし鴎垓は短く呻いただけで、さほど痛いとも感じていない様子。
無事な方の手で腹を撫でれば、当然と言わんばかりに傷は元に戻っていく。腕も同様に、今度は手を翳すまでもなく元の状態に。
破けた服もいつの間にか直り、さて。
「やはり追い付けんな……そうなると儂にはあれしかないんじゃが」
そう呟きながら、再び構えを取る目の前の男と視線を向ける鴎垓。
先ほど案山子にさせた動きは参考にした人物が特に得意としていたもの。
あの時は怪我もあり、避けるも受けるも酷くやりにくかった。
しかし万全の状態で相対しても結果はこれ。
根本的に体が追い付かない。
これに対応するにはひたすらに反復するしかないが……そうするとまた死にかねない傷を何度も負うということになる。
いくら死なない、痛みもないとはいえ怪我は怪我。
決して気分のいいものではない。
しかし今のところそれくらいしか方法がない。
であるならば、戸惑う時間が勿体ない。
どうせ気分が悪くなる程度の代償。
それだけで済むなら儲け物。
何より、これまでもそうしてきたのだ。
今更躊躇するものか。
「んじゃまあ、やるか」
そうして鴎垓はこの精神の世界で、目の前の男を相手に戦いを始めた。
だがそうそう上手くいくことはなく、一戦するたびに腕が、足が、頭が、胸が、腹が、体のどこかが傷を負う。
そのたびに仕切り直し、そしてまた傷付けられ。
いつしか時間を忘れ、木偶人形との戦いに意識を没頭させていく。
敗北を糧に、少しずつ、しかし着実に男の動きに対応し始める鴎垓。
無限とも言える時間の中、ひたすらに刀を振るう。
目覚めた時、その僅かな積み重ねが必ず活きると信じて。
そしてその機会は着実に、現実に差し迫っているのだった。