アザミは復讐の花
読んでいただきありがとうございます。
4/15 誤字脱字報告ありがとうございます。多くて恥ずかしいです。訂正しました!
それは遠い遠い記憶。
大小様々な花が咲き乱れる温室はドーム状のガラスの天井から陽の光が差し込んでいる。
温室の奥――ひと際美しく咲き誇るウィステリアの花の前で、一組の少年と少女が肩を寄せ合っている。
美しい金髪の少女と麗しい黒髪の少年。
その光景は一枚の絵のように美しく、耐えがたい衝動に襲われて思わず駆け寄る。
自分より少し高い位置にある手を掴み見上げると、少女は驚いた顔を浮かべ、少年はあからさまに眉を寄せた。
二人の間に無理矢理小さい身体をねじ込み叫ぶ。
「アザミは俺のだ。だから絶対何処にも行ったりするな!誰にもやらない!アザミは俺のものなんだからな!」
***
久々に夢を見た。小さい頃の夢。あれは確かに現実にあった出来事だ。
小さい頃のフレッドはアザミが大好きで、いつも後をついて回っていた。少しでも姿が見えないと制止する家庭教師を振り切り、見つかるまでその姿を探した。
あの後温室で――どうなったんだっけ?
寝起きでまだ完全には開かない目を擦りながら起き上がる。
サイドテーブルの時計に目をやると、いつもの起床時間より既に二時間程遅れている。
「アザミのやつ、仕事放棄か?」
むっとして手元のベルを鳴らそうと手を伸ばし、そういえば、と思い出す。
以前は朝型で決まった時間になると自然と目が覚めていたが、ここの所、学園で出来た悪友たちと夜遅くまで遊び歩き、外泊することも多かった。昨日だって、自分のベッドで寝たのは三日ぶりだ。
アザミはこの国の第二王子であるフレッドの専属侍女だ。幼い頃、偶然見かけたアザミを気に入ったフレッドの一声で専属侍女になり、それからフレッドが十五歳になった現在に至るまでずっと仕えてくれている。
幼い頃のフレッドは、アザミにべったりだった。振り返ると馬鹿みたいにアザミの後ばかりくっついていた。
しかし、そんなフレッドも十五歳になった。最近ではまるで母親のようにあれこれと細かく世話を焼くアザミをうっとおしく感じることが増え、先日遠回しに夜遊びを批判された時には、つい「侍女の癖に余計な口出しをするんじゃない。俺に顔を見せるな!」と怒鳴ってしまった。
アザミの言うことは間違っていない。自分でも素行不良の王子としてあちこちで陰口を叩かれているのは知っている。
自分のことを思って言ってくれたアザミに悪いことをしたと今更ながらに罪悪感の湧いてきたフレッドは、アザミがやってきたら優しく接してやろうと決めた。
ベルを鳴らしても中々やってこない侍女に苛立ち、寝起きのガウン姿のまま扉から顔だけ出して外を覗くと、城内がなんだかやたらと騒がしい。速足で歩く侍女を無理矢理呼び止め話を聞く。
「なんでもフィオレ商会が拠点を我が国からシュタルケに移すそうで……」
「なにっ!?」
フレッドは驚きに目を見開いた。
フィオレ商会といえば、この国どころか他国にもその名を轟かす大商会だ。当然王宮にも出入りしているし、父上や母上が身に着けているブローチやタイピン、ドレス類もフィオレ商会のものが多い。両親だけでなく、兄もフレッドも当然のように利用している。
おまけにその財力を見せつけるかのように、多額の税だけでなく度々寄付金も納め、我が国の公共事業にかかる費用の内半分はかの商会が出していると言われるほどだ。
その商会が一体何故?
思いがけないニュースに固まるフレッドを後目に、侍女は氷のような目を向け、仕事があるので失礼します、と言って去っていった。
理由はわからないが、昔から時折フレッドに対してこのように冷たい目を向ける侍女や侍従が一部いる。注意しようにも、仕事はきっちりこなしているため言いがかりをつけているように思われるのが嫌でそのままにしている。
ああ、今の侍女に朝食を持ってくるように言えば良かった。
去っていく背中を眺めながら仕方なく部屋に戻ると再度ベルを鳴らし、適当な服に着替え大人しく待つことにした。
顔だけは見たことのある侍女が食事を持ってやってきたのは、それから一時間以上も経ってからだった。
この侍女がアザミと親しそうに会話している場面を何度か見たことがある。仕事中は私語は慎めと指摘してやって以降、話している場面をフレッドが見ることはなくなったが。
「遅い!どれだけ待たせる気だ!」
怒鳴りつけたフレッドに、侍女はむっとした表情を浮かべる。
こいつはだめだな、アザミならこんな顔はしない。
内心で罵倒しながら、侍女に冷たい視線を送る。
「申し訳ございません。ですが、そうは言いましても……今城内は何処も人手が足らず大変なことになっておりますので」
「人手が足りない?何故だ」
フィオレ商会が王城に納めていた品物は多岐に渡るだろう。多少の混乱は頷けるが、人手が足りないとはどういうことだ?
「下女や下男、庭師など一部の使用人が一斉に辞めてしまったのです」
城で働く侍女や侍従は、使用人とは言ってもその殆どが貴族家の出身だ。特に侍女などは花嫁修業の一環で行儀見習いとして城に上がることも多い。彼らとて城の外に出れば人に世話される側の人間なのだ。
そんな彼らが侍女や侍従として働く際、彼らの世話をしているのが下女や下男と呼ばれる人間だ。
彼らの多くは平民や一代貴族の準男爵の縁者などで、通常王族であるフレッドの目につくことはない。だからこそ、彼らが一斉にいなくなったと聞いてもフレッドには今いちピンとこなかった。
食事を並べ部屋を出ていこうとする侍女に声を掛ける。
「食事の片づけにはアザミをよこしてくれ」
「え……」
フレッドの言葉に、侍女は動きを止め眉を寄せた。
その表情にイラっときたので睨みつけてやる。
「なんだ?文句でもあるのか」
「ええ、あります」
「なんだと!」
激高するフレッドに怯むことなく、嫌悪の滲む声で侍女が告げた。
「アザミ様……いえ、アザミ殿下はもう此処にはいらっしゃいません」
「は………?」
アザミがいない?
どういうことだ?
それに、アザミ殿下だと?
この侍女は何を言っているんだ。頭でもおかしくなったのか?
「三日前、シュタルケの新王の要求通り、我が国の王族の一員として嫁いでいかれました。名目は側室だそうですが、体のいい人質です。一度だって王族として扱ったことはないのに、都合のいい時だけ王女扱い。碌に仕度も整えず古い荷馬車で送り出した。何故それを第二王子である貴方様がご存じないのですか?あれだけアザミ様を侮辱しこき使っておきながら……感謝の言葉ひとつなく、見送りすらしないとは、貴方様には人の心がないのですか?」
「なんだと!貴様っ、誰に向かってものを言っている!クビにするぞ!」
「ええ、結構です。私とて貴方がたのような最低の人間にこれ以上仕える気はございません。元より、今日中に辞める予定でした」
それでは、もう二度と会うことはないでしょうが精々お元気で。
世が世なら不敬罪で処罰されてもおかしくない不遜な言葉を吐き出しくるりと背を向けると、侍女は制止するフレッドの声も聞かず去っていった。
それを茫然と見つめながら、フレッドは思い出していた。
三日前の夕方、これから出かけようという時にアザミがフレッドを訪ねてきた。いつになく真剣な顔で「大事なお話があるのです」と言われたが、約束の時間が迫っていたのと、またいつもの小言かと思い話も聞かず怒鳴りつけた。フレッドの名を呼ぶアザミの声を背に、さっさと部屋を出て街へ向かった。
だからフレッドは、あの時アザミがどんな表情をしていたのか思い出せない。
「アザミが、隣国へ嫁いだ……?王族の一員って、どういうことだ……」
あれほどうざったく思っていたアザミがいざいなくなったと聞いて、フレッドの胸はいやにざわついた。
頭に浮かぶ沢山の疑問。答えを求めるべく、用意された食事を摂ることなくフレッドは急いで部屋を出た。
***
「父上、どういうことですかっ!」
フレッドが部屋を護る近衛騎士たちの制止を振り切り執務室へ乗り込むと、そこには父である国王の他に王太子である兄、そして兄の側近でもある従兄がいた。
「何事だ。お前に入室の許可は出ていないはずだが」
兄から向けられる眼差しは鋭く、声には軽蔑の響きが滲んでいる。
この兄はいつもそうだ。フレッドを見る眼差しに兄弟の情はない。
「アザミが隣国へ嫁がされたと聞きました。本当なのですか!?」
「今更か?三日前に旅立ったよ。お前は何故か見送りにすら現れなかったがな」
フレッドが遊び歩いていたことなど、とうに知っているのだろう。
バツの悪さに勢いを削がれ、声は小さくなっていく。
「そんな……何故……大体何故アザミが行かねばならないのです?」
「シュタルケの新国王の望みは王族の“人質”だったからだよ。お前がアザミの代わりに行ってくれたとでもいうのか?」
「意味がわかりません!シュタルケがいくら強国とはいえ、代替わりしたからといって何故我が国が人質を送らねばならないのですか!大体ただの平民であるアザミが王族の代わりになるわけがないでしょう。まさか、人質として送るために無理矢理養女にでもしたというのですか!」
「………お前は本当に、何もわかっていないんだな」
それでよく王族と名乗れる。吐き出すように言った兄だけでなく兄の隣の従兄からも刺すような視線を向けられ、フレッドは息を呑んだ。従兄の全身からはもはや殺気と呼んでもいいものが溢れ出している。
じとり、と嫌な汗が背中を濡らした。
「陛下、愚かな息子に一から説明してあげてはどうですか」
項垂れる父親に嘲りを含んだ声で兄が言う。
いつからか、兄は父を陛下としか呼ばなくなった。
フレッドが兄さんと呼びかける度に微かに眉を寄せるようになったのは同じ頃ではなかったか。
父は暫くの間俯いていたが、兄の圧力に負けたのか重い口を開いた。
「我が国は密かにシュタルケの第一王子と手を結んでいたのだ……」
曰く、隣国シュタルケは近年国王の腹違いの息子である第一王子と第二王子の間で激しい王位争いが起きていた。そんな最中、国王が流行り病にかかって後継者を指名することなく突然死んでしまった。国は母の実家である公爵家の後ろ盾を持つ第一王子派と、市政の人気や執政能力圧倒的だが母親の生家の地位が伯爵家と低い第二王子派に割れ、長らく続く内乱にシュタルケ国内は大きく荒れた。
シュタルケは強大な軍事力と肥沃な土壌を背景に領土を広げた大国だ。この機会に恩を売ってやろうと、父は密かに第一王子に接触し、彼が即位した暁には我が国への関税を大幅に引き下げることを条件に支援した。
第二王子でなく第一王子についたのは、単純に第一王子の方が御しやすいと考えたのもあったが、権威主義的な父には公爵家の母を持ち、王族の血がより濃い第一王子の方が好ましかったからだろう。
そして先日、二年に及ぶ内乱の末にシュタルケの王位争いは終結した。王の座に就いたのは第二王子だった。第一王子は生涯幽閉。彼に付き従った家臣たちは軒並み家ごと取り潰された。
若き新王は迅速かつ苛烈に荒れた国内をあっという間に平定した。
そして優秀な彼は当然、密かに第一王子に協力していた我が国のことも見逃さなかった。
関税を引き下げるどころか税率は引き上げられ、賠償金と共に王族からの“人質”を求められた。
そうして生贄として差し出されたのが、アザミだった。
「事情はわかりました。でもどうしてアザミなんですか……」
「逆に何故今まで知らずに生きてこられたのか、俺はそれが知りたいですよ」
兄の隣でじっとこちらを睨みつけていた従兄が嘲った。視線で人が殺せたなら、フレッドはとっくの昔に従兄に殺されていただろう。
殺意を抑えきれない従兄を宥める様に肩に手を置くと、兄は溜息と共に吐き出した。
「それはな、アザミが陛下の娘だからだ」
「………は?」
兄の言葉に耳を疑った。
兄は今、なんと言った?
「アザミは正真正銘私たちの姉弟だ。腹違いのな」
「アザミが……父上の娘……?嘘だ……嘘に決まってる……」
「残念ながら、嘘ではない」
氷のような兄の視線の先を辿ると、顔を蒼くする父がいた。
「嘘だ……じゃあ、なんで」
「陛下。貴方に似て愚かに育った息子に、真実を教えてあげてはどうですか?フィオレ商会の会長――いや、今はもう前会長でしたね――の末娘を騙くらかして私生児を生ませた挙句、フィオレ商会から資金を引っ張るために無理矢理子供を奪い取ったのだと」
「そんな……う、嘘ですよね、父上」
顔を蒼白にした父は、俯いたまま黙って座っている。
兄の口にしたことは事実なのだ、とその態度が物語っていた。
「なんで……」
足元がぐらりと揺れ、信じていた地面が崩れ落ちていく。
「この人はね、まだ王太子だった時――俺たちの母親である王妃と結婚する前に身分を偽ってあちこち遊び歩いていたんだよ。そう、丁度今のお前のようにね。フィオレ商会長の愛娘だったアザミの母親は商会の商品デザインも担当していて、納品の際他の商会員に同行して城を訪れることもあった。城に訪れたアザミの母親を見初めたこの人は、平民の振りをして商会に通い、アザミの母親と恋仲になったんだ。その時既に王妃と婚約していたのにも関わらず、だ」
そうして兄の口から語られた出来事は到底信じられない……信じたくない話だった。
父にも当然影はついていたが、父は金を握らせ彼らを黙らせると、何食わぬ顔で二重生活を続けた。
父と恋仲になったアザミの母親はやがて妊娠する。
父は自分の身分を明かすことなく、あくまで市井で暮らす平民としてアザミの母親と教会で結婚式を挙げた。フィオレ商会の商会長の娘であれば、本来は親類縁者を呼んで盛大に結婚式を挙げるところだが、結婚前に既に子供を身籠っているのは平民といえど外聞は悪い。
そのため、本人たちの希望もあって結婚式はふたりだけでひっそりと挙げられた。
後でわかったことだが、父は教会ごと王太子の金と権力を使って囲い込んでおり、立ち会った司祭により密かに書類は破棄され、ふたりの結婚は正式に認められていなかった。
本来の婚約者である王妃との挙式が近づき、二重生活を続けることが厳しくなってきた父は次第にアザミの母の元を訪れなくなる。アザミの母は健気にも、自分と生まれてくる子供を養うために遠方に仕事をしに行くという言葉を信じて待ち続けた。
そうしてアザミが生まれた当日――王太子の結婚式が上げられ、同時に婚約者が既に懐妊していることも発表された。心細さに耐え出産を乗り越えたアザミの母は、国の慶事を祝う新聞の写真で、自分の夫だと思っていた男がこの国の王太子であったことを知った。
アザミの母親はすっかり精神を病んでしまった。一日中部屋にこもり、生まれたばかりのアザミを抱くこともない。一日中窓の外を見つめ、帰ってくるはずのない男の帰りを待っている。
彼女の家族が調べると、結婚前に男が語っていた素性は全て嘘だった。正確には、実在する男の名や経歴を語っていた。父は狙いをつけた男に金を握らせ遠方にやると、そっくりそのままその男の身分を名乗っていたのだ。だからこそ、アザミの母の家族が男の素性を調べた時にも問題ない、と判断されてしまったのだ。
この国では重婚は認められていない。それなら、と教会に乗り込めば、アザミの母が男と結婚した事実はないという。自分が取り仕切った結婚を平然と無かったかのように語る司祭に、最初からそのつもりだったのだと悟ったアザミの母の家族は怒り狂った。アザミは父親が不明の私生児として扱われた。
無論、それほどのことをされて黙っていられるはずもない。当然彼らは王城に乗り込んだ。
ただの平民なら門前払いをくらって終了だったろうが、フィオレ商会は王族御用達の商会で、普段から王城に出入りしていたため、それが出来たのだ。
彼らに対面した父は言った。今まで通り、仮の夫として、時々アザミの母を見舞う代わりに、自分に資金を提供しろ、と。
そんな理不尽で恥知らずな要求をはいそうですかと呑めるわけもなく、当然フィオレ商会の面々は要求を突っぱね、この国を出ていこうとした。
けれど、アザミの母親が頑なに首を振った。いつか夫が帰ってくる。自分はここを動くわけにはいかないと。家族や友人、商会員が必死に説得しても彼女は頷かなかった。日ごと衰弱し、おかしくなっていく彼女の姿に、ついに彼女の家族は折れ、その要求を呑むしかなかった。
年に数回、ほんの十数分顔を見せるだけの男を、アザミの母親は待ち続けた。家族はもうやめろと言い続けたが、男に会った後、ほんの少しの間だけ正気に戻る姿を見て、それ以上言うことが出来なかった。
やがてアザミが五歳になった頃――遂にアザミの母親が死んだ。長く続いた屈辱を重ね、憎悪を募らせる日々が漸く終わりを迎えたのだ。この国に娘の骨を埋める気はないと、今度こそアザミの家族はフィオレ商会ごと国を出ていくつもりだった。
ところが、その時再び悪魔がやってきた。今までアザミの存在すら公に認めることをしなかったくせに、突如「王族の血をみだりに国外に出すわけにはいかない」と、抵抗する家族からアザミを奪い取った。アザミは泣いて抵抗したが、屈強な騎士たちには敵わずあっという間に連れ去られてしまった。
それからは新しい地獄の日々の始まりだった。
名目上は王女として王城に連れていかれたものの、その存在は世間に明かされることなく、碌に後ろ盾もなく朽ち果てた離宮に追いやられたアザミを放置して国を出ていくことは、家族には出来なかった。
アザミを人質にとられたフィオレ家は渋々言われるがままに金蔓に甘んじるしかなかった。
「お前はアザミと自分が大して年が変わらないと思っていたようだが、今の話でアザミの年齢がわかるか?」
そこまで言って、兄はフレッドに話を振った。
兄とフレッドは兄弟にしては年が離れている。その差は九歳。アザミが生まれた頃、兄はまだ王妃の腹の中ということは……
「アザミは俺の、十も年上?」
フレッドは信じられない思いで呟いた。
線が細く華奢で、背も平均的な女性より低いアザミはせいぜい十六、七歳にしか見えなかった。
「この男はな、フィオレ商会から金を散々脅し取っておきながら、一銅貨だってアザミに使わなかったんだ。アザミがあれ程華奢なのは、幼少期の栄養不良が原因だ」
兄と従兄の冷たい視線が父に突き刺さる。何も言わない父を、フレッドは驚愕の思いで見つめた。
アザミの生活費としてむしり取られた大金がアザミに使われることはなかった。その金はそのまま父やその妻である現王妃以下の懐に直行し、正真正銘王族の血を引いているのにも関わらず、アザミは食うや食わずの生活を余儀なくされた。アザミが何とか生き延びられたのは、アザミの祖父や伯父がなんとか王城にもぐりこませた人間から最低限の保護を受けていたからだ。それがなければ、アザミの命はとうになかっただろう。
「王族として認められなくとも、アザミは大商人の孫娘だ。アザミの叔父である現会長は、国を出た後はアザミを養女にして自分の娘として育てるつもりだったそうだ。本来なら例え私生児として扱われたとしても、食べるのにも困るような環境に追いやられることはなかったんだ」
「嘘だろ、父上……なんでそんな酷いことを……」
「酷いこと?アザミを地獄に留め置いた張本人がそれを言うのか?」
鬼の形相の従兄がフレッドを睨みつける。
「俺が……アザミを地獄に留め置いたとは、どういう意味です」
「ここまで聞いてまだわからないのか?覚えていないとは言わせない。お前が俺の目の前でアザミを自分の専属侍女にすると言ったのを、俺ははっきり覚えている」
「そ、れは……」
そうだ。たまたま見かけたアザミを、フレッドは一目で気に入った。
アザミはとても美しい娘だった。陽に透ける黄金の髪も、透き通るような白い肌も、人形のように整った顔も、折れそうに細い身体も、その儚げな雰囲気も――そのどれもがフレッドの琴線に触れた。
次男という気楽な立場もあり、幼い頃から甘やかされていたフレッドは、欲しいと願えば大抵のものは手に入った。だから当然のようにアザミも欲しがった。そして実際願った通りに、アザミが自分の傍を離れることはなかった。
王城にあがる侍女は殆どが貴族だ。アザミの実家を聞いた時、アザミは平民だと答え、今日までそれを信じていた。
だが――何故、考えなかったのだろう。
そもそもただの平民が王城にいるわけないのだ。それこそ、次男とはいえ王子の目に触れるような場所に入れるわけがない。
そんな簡単なことにすら、言われるまで気付かなかった。
「例え複雑な立場に立たされていても、あれだけの美しさだ。おまけに気立てもいい。アザミの存在を知る者からは、沢山の縁談が来ていた。条件のいい縁談はいくつもあった。俺も何度か、アザミに求婚した。この地獄から彼女を解放してやりたかった」
「じゃ、じゃあなんで……」
「なんで、だと!?彼女が手を差し伸べられる度に、お前がそれを潰してきたんだろう!この悪魔め!」
「お、俺は潰してなんて……」
「ふざけるなよ。覚えてないとは言わせないぞ。お前は事あるごとにアザミの後をついて回り縛り付け、彼女が顔合わせをする度に乗り込んでいって邪魔したじゃないか!」
フレッドを睨みつける従兄の声は怒りに震えていた。濡れ羽色と褒めそやされるその黒髪が揺れる様に、ふと今朝見た夢が思い出される。
あれは……アザミと寄り添っていたのは……この従兄だったのか……。
「あげく王女であるアザミを侍女扱い。知っているか?アザミはお前に強制され侍女の真似事をさせられていたが、正式に雇われた侍女ではない。だから給金も出ない。休みも取れない。備品の支給もない。無給でこき使われ、まるで奴隷のようだと心無い連中から蔑まれていた」
従兄の言葉に、ひゅっと喉が鳴った。
そんな……そんなつもりじゃなかった。
自分の犯して来たあまりに多くの罪に身体が震えだす。
「お前、アザミに言ったんだって?俺に顔を見せるな、と。良かったじゃないか、希望通りになって」
「そんな……」
フレッドはその場に崩れ落ちた。その頬はいつの間にか涙で濡れている。
「お前に泣く資格はない」
冷たく言い放った兄は、虫けらを見るように一瞥すると、父に向き直った。
「さて、陛下。貴方が犯して来た数多くの罪は、今こそ清算されるべきだ。大国の若き王の怒りを買い、国内外に名を馳せる大商会が恨みを募らせ、この国から出ていく切っ掛けを作った貴方を国民が許すと思いますか」
フィオレ商会の名は他国にも轟いている。彼らがこの国から手を引いたこと、おまけにその理由が知られれば、国際的な批判は避けられず、フィオレ商会に追随してこの国から手を引く者も大量に出てくるだろう。
国内の流通が滅茶苦茶になれば物価は上昇し、国は荒れるだろう。
「貴方にその椅子に座る資格はない。今すぐにでも退位していただく。既に元老院の承認も得ている。本来なら長子であるアザミ姉さんが後を継ぐべきだが、それはもう叶わない。貴方に出来ることは私にその座を明け渡し、大人しく離宮に籠ることだけだ」
項垂れた父王は、救いを求めるように室内を見回した後、状況がひっくり返ることはないと悟ったのか、のろのろとペンを取り、差し出された書類にサインをした。
「それから、その指輪も外してもらおう」
人差し指にはめられた鈍色に光る指輪。王族を表す紋章が刻まれたそれは、代々国王に玉座と共に受け継がれるものだ。
指輪を受け取り、出来上がった書類を兄と従兄、ふたりがかりで確認すると、兄は近衛騎士を呼び命じた。
「元陛下を離宮へ連れていけ。王妃は先に命じて既に閉じ込めてある。何を命じられても、私の許可があるまで決して外に出さないように」
はっ、と敬礼した騎士たちは、力なく座り込んだ父を両脇から抱えるように無理矢理立たせると、扉の外へと引きずっていった。
これが、フレッドが父の姿を見た最後だった。
「さて、お前は私がいいと言うまで謹慎していろ。異論は認めない。それから、お前についていた侍女や侍従の多くが、アザミの件をきっかけに辞職を願い出ている。なんとか留まるように説得はしているが難しい。恐らく半分も残らないだろう。今までのように感情のままに当たり散らすことは許さない」
兄の言葉に、今朝不遜な言葉を言い放った侍女の姿を思い浮かべる。そうだ、彼女は今日でここを辞めるつもりだと言っていた。
「兄上、私は……どうなるのですか」
震える声で尋ねたフレッドに「けっ、まず自分の心配かよ」と従兄が吐き出す。
「お前次第……と言いたいところだが、正直言って私の執政にお前のような愚か者は必要ない。お前が心を入れ替え曇った目が晴れたならば、謹慎は解かれ臣下に降ることもあろうが、私からお前に爵位を授けることはない。みすみす民を不幸にさせるわけにはいかないからな。婿入り先の家があればいいが……碌に仕事もせずに夜な夜な遊び歩き、兄王に嫌われ、使用人にも嫌われ、あげく大商会に恨みを買っているお前を欲しいという、奇特な家があるといいな?」
氷のような視線で最後に一瞥すると、それ以降兄はフレッドに目を向けることはなかった。
従兄に指示され、やってきた騎士たちが先ほどの父同様フレッドを引きずっていく。フレッドは抵抗する気も起きず、茫然としたまま運ばれていった。
王の執務室に残った二人は、窓から外を眺めた。
この部屋からは温室がよく見える。
群生するブルースターの隣、野草のように生えるそれは、紅紫の花。
もう二度と会うことはないであろう人と同じ名前をした花を、ふたりは暫く見つめ続けていた。
***
「おーい!差し入れだー!そろそろ昼休憩にするぞー!」
その声に工房で作業していた職人たちが沸く。
わらわらと立ち上がる職人たちの中、ひと際美しい女性が笑顔で黒髪の青年に歩み寄った。
美しい金髪は首の後ろで無造作にひとつにくくられ、汚れを防ぐためか頭にはバンダナが巻かれている。職人たちと同じ、やや薄汚れたつなぎを身に纏っていても、女神のような神々しい美しさは隠しきれていない。
青年は近づいてきた彼女の腰に手を回すと、自然な動作でその頬に口づけた。
途端に桃色に頬を染める様子が如何にも初々しく、周囲の職人たちはやれやれと言った様子で肩を竦めた。
「まったく、毎日毎日お熱いことだねぇ」
「ほんとほんと。日に日に綺麗になっていくしよぉ、女は恋をすると変わるってホントだなこりゃ」
「うちの母ちゃんもああだったらな」
「ばっか、おめぇ、自分の顔を鏡で見てみろよ」
「うるせえ、お前こそシシザルみてぇな顔しやがって」
「ははっ、ちげぇねぇ」
青年の差し入れたサンドイッチやフルーツを手に、軽口を叩く職人を見て、ふたりはくすくすと笑う。
物心ついた時からずっと、地獄のような世界で生きてきた。
食べるものにも困る生活。かちかちに固いパンを味のないスープでふやかし、冷たい水で身体を拭き、薄い毛布にくるまり眠る。
王太子とその従兄である側近だけは、唯一まともで自分の父や弟王子を恥じているようだったが、彼らとて結局彼女を助けてくれることはなかった。特に従兄の方はやたらと彼女に声かけ、うっとりと見つめては甘い台詞を囁いてくるのでその度鳥肌が立った。
本当に力になりたいと思っているなら、パンのひとつでも持ってきてくれる方が余程良かった。
嘲笑と蔑み、打算と同情に囲まれて生きてきた彼女は、ほんの数か月前までは、こんな幸せな時が訪れるなんて思ってもみなかった。
奴隷のような暮らしを強いられていたのに、突如王女として呼ばれたかと思うと、その日の内に隣国シュタルケへ嫁ぐように命じられた。
王女と名乗って最低限恥ずかしくないドレスを着せられ、乗せられたのは粗末な荷馬車だった。
ああこのまま生贄にされて殺されるのだ、と死を覚悟した。
辿り着いた隣国で待っていたのは、これまで数回しか会うことを許されなかった家族だった。
母の兄である伯父と取引をしたのだ、と若き新王は言った。お前は自由だ、とも。
あの地獄のような場所から彼女を連れ出すため、伯父たちは前々から機会を窺っていた。
愚かな王が隣国の跡目争いに手を貸していることを知ると、伯父たちは即座に動いた。
隣国の第二王子に取引を持ちかけたのだ。
伯父の経営するフィオレ商会の人脈は各国に及ぶ。代々積み重ね運用してきた莫大な資金もある。
それらを提供するかわりに、姪の自由を願ったのだ。
第二王子からしてみれば、破格の申し出だった。女ひとりを助けるだけで、強力な後ろ盾を得られるのだ。しかも報酬は後払いだ。取引が終わった後も、フィオレ商会のような大商会がシュタルケを拠点にするとなれば、国は更に潤う。
第二王子は申し出に応じ、王位を奪うと隣国に“人質”を要求した。
仮にも自分の血が流れる実の娘を、金を引き出すための道具として散々利用し、奴隷のような暮らしを強いるような男だ。
大国の要求に、あの愚かな王は彼女を生贄に差し出すだろうと、伯父たちには分かっていた。
予想通りに事は運び、そうして彼女はついに自由を手に入れた。
彼女の隣に寄り添うのは、元騎士の青年。
彼女の従兄にあたる、伯父の息子の友人で、まだ彼女が王城に連れ去られる前、妹のように彼女を可愛がってくれていた男の子だ。
彼女が連れ去られたと知ると、青年は突然それまで通っていた学園を辞め、騎士学校に入学した。
厳しい訓練に耐え、王城付きの騎士の職を得た彼は、折れそうになる彼女の心を支えてくれた。
辛い環境の中、青年だけが彼女の救いだった。
嫁がされる彼女に形ばかりつけられた護衛騎士の中に紛れ込んだ彼は、そのまま彼女と共に隣国に留まった。
そしてつい先日――ついに彼女にプロポーズし、無事に了承されたのだ。
ふたりは伯父の商会を手伝う傍ら、結婚式の準備に忙しい日々を送っている。
母親譲りの才能を受け継いだ彼女は、商会の主力商品である美しい細工を施したガラスの器のデザインを担当している。
折角だから結婚式の引き出物にはそのガラス製品を送りたいと、時間を見つけてはこうしてガラス工房を訪れ、職人たちに混ざりながらあれやこれやと試行錯誤している。
そんな彼女に差し入れを持って現れる青年と、その彼に寄り添う仲睦まじいふたりの姿は、ガラス工房周辺の人たちにとって名物と化しつつあった。
甘い時間を過ごす中で完成した引き出物のグラスは、美しく咲く沢山のブルースターと、それに埋もれるように一輪のアザミがひっそりと咲いた、それはそれは美しいグラスだったという。
ブルースターの花言葉「幸福な愛」
宜しければ作者ページから他の作品も読んでいただけると嬉しいです。
2021/4/14 少し加筆しました。