*19* 悲しい恋はもうさせない。
勢いを殺さず駆け寄ってきた教え子は、そのまま私に抱きついて停止した。
「ふふ、元気なご登場ですこと。アウローラ様お一人ですか?」
「いいえ、ここまではお城の兵士の方に送って頂きました。フランツ様とホーエンベルク様はまだお勉強中ですの。けれどわたくしが先生に早く会いたくて。三時のお茶にはまだ少し早いのですが、無理を言って連れてきてもらいました」
別れてから少し背が高くなったアウローラの頭は現在私の胸の高さ程度。ギュッと抱きつかれると母性を刺激される高さだが、見下ろす私と見上げる教え子の二人の世界に「ふん、それで護衛の兵士を置いて走って来たのか? はしたない」と、刺々しい横やりが入る。
そう言った彼の視線の先には、通路の向こうからこちらに敬礼する兵士二人の姿が見えた。彼等はマキシム様が軽く手を振ると、最敬礼をして引き返していく。持ち場に戻ったのだろう。
「あら……いらっしゃったのですねマキシム様。先生をここまでお連れして下さって感謝致します。それではまた明日お会いしましょう。ご機嫌よう」
輝く微笑みと背景にお花を背負っての登場から一転、スンッと表情をチベスナ装備に切り替える教え子。フランツ様の婚約者としてほぼ毎日城に姿を見せるのだが、毎回このテンションの低いご機嫌ようでマキシム様をたたみかける。
どうやら式典の席で、私を拐ったのが彼のためだったらしいと理解してから敵視しているようなのだが、前世のぞっこん状態では考えられなかったほど当たりが冷たいのだ。
まぁ、それでも前世ではほぼ虐げられての泣き顔か、理不尽な仕打ちを受けるときの悲痛な表情しかなかったものね……うん、そうだな。チベスナでもいい、天寿まで生きろ。
「こちらは事実を言っただけだというのに、聞く耳も持てないのか。これでは弟も今後苦労させられそうだな」
「申し訳ありませんけれど……先生のことを毎日振り回してばかりのマキシム様にだけは、指摘されたくございませんわ」
「何だと?」
「正直なお言葉を頂きましたので、こちらも事実を申し上げただけでございます」
「お前……口を慎めよ」
ここで恒例の言葉のドッジボールが勃発。十五歳と十歳の舌戦。教育者として感じることだが、相手を的確に詰る言葉を憶えるのは女子の方が男子よりも早い傾向にある……と思う。しかし流石に王城内で言い負かすのは子供同士の諍いとはいえよろしくない。
「マキシム様、歳下の令嬢の言葉にそう簡単に振り回されてはなりません。歳上の殿方はもっとおおらかな方が素敵ですわ」
「それでしたら、先生。フランツ様はおおらかな歳上の素敵な殿方ですわね」
こちらの火消しに間髪入れずにガソリンをまく教え子。多少こちらの話に耳を傾ける姿勢になっていたマキシム様の表情が険しくなった。前世を思えば教え子に肩入れしてやりたいところだけれど、ここは喧嘩両成敗が正しいか。
「アウローラ様、マキシム様の仰ったことの半分は、言い方に問題があれ正しいことです。フランツ様の婚約者候補となった以上、常に行いには注意が必要です。それと個性は人それぞれのもの。からかわれると嫌な気持ちになりませんか?」
「うぅ……」
「マキシム様、私は貴男にだけ我慢をするよう申し上げているのではありません。ただ無用な諍いの種になりますので、攻撃的な物言いはあまりなさらないで下さいませ。貴男の資質を誤解されては勿体ないですわ」
「……分かった」
こうして諭せばきちんと反省できるうちはまだ大丈夫だ。仲直りの握手をさせる趣味はないので、マキシム様の方に「また明日の授業でお会いしましょう」と伝えれば彼は小さく頷いて、兵士達と約束をしていた鍛練場へと戻って行った。
その背中を見送ったのち、目的地までの廊下を並んで歩く教え子にふとした疑問をぶつけてみる。
「アウローラ様はマキシム様をどう思われます?」
「……絶対に誰にも言わないですか?」
「ええ、勿論ですわ。私とアウローラ様だけの秘密です」
「先生と二人だけの秘密なら特別お教えしますわ」
そこで立ち止まり、爪先立った教え子の口許に屈んで耳を近付けると――。
「あの方とだけは何があっても絶対に婚約したくないな、という方です。お父様は少し残念がっておいででしたけれど、わたくしの婚約者候補がフランツ様で安心しましたわ」
ポソポソと耳打ちされた、子供らしさと大人っぽさの入り交じった言葉にほんの少し笑ってしまったけれど、前世では散々手を焼かされた報われない恋心のルートは、今世でようやく粉微塵に砕け散ったようだ。
今度こそこのルートで逃げ切り勝ちをさせてみせる――……!
ためにはまず、これまではほとんど送られてくることのなかった、見合いの釣書へ対して断りの手紙を量産する必要があるのだけれど。
多忙な父の目を掻い潜って送られてくる釣書の枚数は日毎に増え、酷い日には朝断りを入れたはずの相手から入れ違いに恋文が届く。顔も名前も知らない人物からの手紙は怖いものだ。
嬉しそうに手を繋いでくる教え子の姿を見下ろしつつ、いまから帰宅後に執事から手渡される郵便物の量を考えて、密かにゾッとするのだった。