◆エピローグ◆
やっと……やっと完結しました!
ここまでずっと読み続けて下さった読者様に感謝を(*´ω`*)
知らない野原。
知らない街道。
知らない人々。
知らない家々。
私を乗せて矢のように風を切るこのしなやかな芦毛馬のことすら、何も知らない。エステルハージ領とは違う空気を感じるここは、ずっと世間話に聞くだけだったホーエンベルク様の治める領地だ。
あの騒がしい昼下がりのティーパーティーから二ヶ月。
いまは婚約期間中の交換留学中みたいなもので、先月はうちの領地に来てもらったから、今月は私が彼の領地にお邪魔させてもらっている。ただ、先月のうちへの訪問はホーエンベルク様にとってやや辛いものだったかもしれない。
それもこれも婚約を許したはずの父が急に『鍛えているか確かめたい』と言い出し、ありとあらゆるタイミングで使用人達に闇討ち紛いのことをさせたからだ。当然の如くガンガルも加わり、真打ちは父というカオス。アンナも笑って見ているし、ヨーゼフは純粋に感動するしで、突っ込みを入れるのが大変だった。
――と、後方から追ってくる仲間の馬を気にしてスピードを落とす芦毛の首を軽く叩き、乱れたたてがみを整えてやっていたら、ホーエンベルク様が乗った黒馬が追い付いてきた。
「乗馬が好きだとは聞いていたが、ここまで乗りこなせるとは驚いた」
「ふふ、お褒めに与り光栄ですわ……なんて。本当はこの子がとても賢くて良い脚を持っているからで、私の腕ではありません」
「そんなことはない。確かにその馬は賢いが、同時に背に乗せる人間を選ぶ。そのせいで馴致をつけた俺の留守中は放牧するのも大変だったらしいからな」
「賢い上に義理堅い子なんですね。ますます素敵だわ」
「そんなに気に入ってくれたのなら、その馬は貴方の馬にしよう」
「え? いえ、決してねだったわけでは――、」
「この領地を視察する馬が必要になるだろうからと思っ――……いや、すまない。気が早い話だった。忘れてくれ」
ホーエンベルク様はそう言うや並べていた黒馬を少し前に出してしまったので、私からは赤く染まった彼の耳と首筋しか見えない。馬を並べてどんな顔をしているのか見てみたい一方で、自爆する可能性を考えて止めた。きっといまの私の耳も首筋も彼と同じくらい赤いに違いないのだから。
馬の首の長さほど前を行く彼の耳を見つめながら、しばらくお互いに会話を交わさず初夏の野原を歩く。遠目に見えるエステルハージ領よりも広い農地には夏野菜の葉が揺らめき、収穫のときを待っている。
あそこを耕しているのは、きっと舞台に出演してくれた元騎士達やその家族なのだろう。命をかけて握った剣を、鍬や鋤といった農具に持ち替えることに幸せを感じられる優しい人達。
そんな彼等に『うちの若様は奥手でして』『初心なんです』『若の口から女性の話を聞いたのは、貴女が初めてだ』と言われるホーエンベルク様は、家庭教師になる前の騎士時代でも良い隊長だったのだろう。
その当時の彼に思いを馳せながら馬を進めていると熱が引いたのか、再び黒馬が下がってきて私の芦毛馬の隣に並んだ。
「ここでこうして貴方と馬を走らせるのは楽しいが、今頃王都でエリオットがアグネス嬢に迷惑をかけていないか心配だ。あいつはすぐに羽目を外して全力でやりたいことに挑む癖があるからな……」
「フェルディナンド様のことですから、彼女が本当に困ることはしないと思います。それにアグネス様はフェルディナンド様に甘えられるのがお嫌いではないようですから」
「だとしたらとても有難い。少なくともあいつの食生活は改められるだろうな」
そう。どういう経緯でそういう素晴らしいことになったのか、二ヶ月前の公演後にアグネス様とフェルディナンド様は【親友からの交際】を始めたのだ。神の采配というものの存在を初めて実感した。アンナにアウローラにアグネス様。この世界の推し達が幸せだと私も毎日幸せだ。
彼の兄のようなホーエンベルク様の手前控えめに言ってみたけれど、実際にアグネス様はフェルディナンド様に甘えられるのが大好きだと確信している。先日も絵の製作中に持っていく差入れは何が良いだろうかと手紙で聞かれたばかりだ。
それに端から見れば一方的に甘えているように見えるフェルディナンド様も、甘え下手な彼女の甘やかし方を心得ているように思う。この間も自作の耳飾りを贈ったらしい。アグネス様からの手紙で知ったときは、彼女のコルセットにしまってあった手紙を思い出して嬉し泣きしたものだ。
そのことを思い出してふと漏らした笑いに気付いたホーエンベルク様が、じっと私の顔を見つめて、逡巡するように視線を逸らしたかと思えば、やはり言う気になったらしく口を開いた。
「その馬は勿論、いずれは受け取ってもらいたいが……いまはもっと他に、貴方に受け取ってもらいたいものがある」
「はい、何でしょうか?」
「少し後ろに失礼する」
そんな言葉を聞いたかと思うと、彼は並んだ黒馬の背からヒラリと私の芦毛馬の背に乗り移った。その軽業師のような身のこなしにも驚いたけれど、それより拳一つ分の隙間を開けた背にホーエンベルク様の気配を感じて、一気に顔に血の気が集中する。異性との相乗りは幼い頃に父として以来だから余計に。
少女漫画か乙女ゲームのような場面に身を固くして手綱を握っていた私の手を、ホーエンベルク様の大きな手が開かせていく。そうして完全に覆われた手のうちの一方、左手のある指に冷たいものが触れる。
緊迫した空気を読んでくれたのか、歩調を穏やかにしてくれる芦毛馬の背に揺られ、ゆっくりと覆われていた手が離れたときには、左手の薬指にダイヤのついた指輪が輝いていた。
「……大きかったり、きつかったりはしないだろうか」
「ええと……ぴったりです。でも、いつの間に?」
「エリオットが『親御さんに挨拶して、本人に婚約申し込んで、それで婚約指輪の一つも用意してないとか正気?』と助言してくれたから、その日にその足で工房に注文に行った。指輪の大きさはアンナ嬢に聞いた」
頭上から掠れた声が降ってきて、背中から伝わってくる彼の不器用な誠意に不覚にも視界が涙で歪む。
「結婚後も、貴方をこの領地に縛り付けるつもりはない。社交界が苦手なのは知っているから無理に出席しないで大丈夫だ。王都でアウローラ嬢の家庭教師を続けるのも、王都やエステルハージ領で才能ある者を探すのも自由にして欲しい。俺はそんな風に伸び伸びとしている貴方が……とても好きなんだ」
続く止めの台詞に返せるものなんていまの私は持っていないから。馬上で振り向いて贈る貴男の頬への口付けで、私の想いを告げさせて。




