♗幕間♗心が震える。
――待ちに待っていた五国戦記最終章公演初日。
再会直後に起こった問題も即座に解決――……できたうちに入るのかしら、この状況は? 肩口に感じる重みと時々首筋に当たる、ヒヤッとするガラスビーズの感触と、染み付いた油絵の具の匂いが心臓に悪いわ。
肩を貸して欲しいと頼んできたフェルディナンド様にドギマギしつつ、親友なのだから他意はないのだと言い聞かせて肩を貸したものの……舞台に集中しなきゃと思えば思うほど意識してしまう。
でもさっきのすぐ横の通路を甲冑姿の兵士が駆け抜ける開始場面は、唯一そんな煩悩と手が切れた。それにあの瞬間あっという間に会場の観客達の心を掴んでしまったわ。その気配を直に肌で感じることができたことで、ここしばらくの苦労が報われた気がするのだから現金ね。
でもあの甲冑兵士役が退役軍人だなんて誰が思うかしら。きっと今日の観客達の中でもそういう職場に近い方達しか分からないわね。それにベルタ様も予想をしていなかったでしょうし、アンナ様からこの作戦に誘ってもらえて良かった。
流石に物語の内容までは教えてもらえなかったけれど、大まかな演者の皆の動きは教えてもらっているから、何も知らないベルタ様は驚いてくれたかしら?
ただ衣装と臨時出演者の貸出しをしたホーエンベルク様はともかくとして、フェルディナンド様は絵の内容を聞いていただろうから、脚本の中身を知っているに違いない。それでもどんな反応をするのか楽しみにしていたけれど。
チラリと視線を舞台から肩口に向ければ、フェルディナンド様はまだスヤスヤお休み中。中列の席だから舞台の明かりが僅かに届く。そのおかげで無防備な寝顔を盗み見し放題で役得ではあるけれど、やっぱりちょっと物足りない。でも――。
「……こんなにお疲れなんですもの。あとで説明できるよう、代わりにしっかり鑑賞して差し上げますわね~」
聞こえていないだろうとは思うもののそこは親友らしく労って、視線を再び終わりから遡る物語に固定する。わたしがフェルディナンド様の寝顔に釘付けになっていた少しの間に、場面は一気に遡ったようだ。
舞台上に落ちる明かりは教会の飾り窓を彷彿とさせる。白い光の中心にいるのは先程まで血の熱狂の中心にいた主人公の青年だったけれど、やや趣が異なっていた。修道士見習いのような服は王族らしくないわね? それに隣に立つカソック姿の男性も王子に侍るには格が不足している気が……。
「“先生、陛下と王子はまた他国に無用な戦を仕掛けたと聞きました”」
「“おや。こんな場所にまで聞こえてきましたか、彼等の悪行は”」
ああ、ここで【先生】と【教え子】を出すだなんて。ベルタ様にもわたしにも馴染みのある言葉が出てきて嬉しいような、終わりがくる世界にわたし達と似た立場の主人公達がいて複雑なような、不思議な心地。
「“はい。表では存在されていないとされ、陛下や王子達に犬の子と呼ばれた僕の耳にですら”」
「“ふむ……そうですか。人の口に戸は立てられないと言いますからね。して、我が君はその情報を誰の口から聞いたのですか?”」
「“この教会に食事を運んでくれる騎士達から。彼等はきっと僕を奉り上げて反乱の旗標にでもしたいのだと思います”」
青年はそこで一度言葉を切って首を緩く振る。恐らく彼は身分の低い母親から……会話の内容から察するに退屈しのぎに手を出したメイドか、旅芸人のような身の上の女性かしら。
どちらにしてもこの国は先に公演された四国のどの視点から見たところで、根幹が膿んでいる。かといって奉り上げられたところで、もう八方塞がりなのだからどうにもならないでしょうね。
二人の演者は姿形はまったく異なるのに、静かな声や佇まいはまるで“一人の人格”のように見えた。広い劇場内は観客達の好奇心と、憐憫と、どこかで見た既視感、それからこの後に起こる終わりの時に逸っている。
「“それは重畳。そろそろ頃合いになるだろうとは感じていたのですが、まだ貴男に話すには足りないかと考えていたのです”」
彼等を見て感じる既視感の正体に、いったいどれだけの観客が気付くのかしら。わたしはもう知っているわ。陽の目を見てこなかった可哀想な青年が、あの穏やかそうに見えて少し食わせ者な感じの先生に救われるだろうって。
――また、場面が変わる。
王とその息子達はどんどん大陸内に戦禍を広げていく。あの遊戯盤で楽しくお茶の時間に策を巡らせたわたし達とは違って、無為に、無慈悲に、無感動に、意味もなく、理非もなく。剣戟と喧騒ばかりが増していく。
段々と舞台の上から赤以外の色が消えていった。優しい色達が死んで、いつの間にか天井から降る明かりですら赤い。本当に、あの入口にあったフェルディナンド様の絵の通り。すべてを焼き尽くす業火のようだけど――。
「……フェルディナンド様の描いた赤の方が、もっと綺麗で熱そうだったわね~」
思わずそう零したそのときわたしの肩口に頭を預けていたフェルディナンド様が身動いだ……だけではなく、耳許に唇を寄せられて「本当にそう思う?」と。
少し掠れた甘くて色気のある声を吹き込まれ、突然のご褒美に驚いて声を上げそうになった口を油絵の具の香りがする掌で塞がれて。動悸、息切れ、眩暈を発症しつつも鼻息を荒くしたくない乙女心で必死に堪えていたのに。
「あの絵はさ、アグネス嬢に褒めて欲しくて頑張ったんだ」
そう言って至近距離で悪戯っぽく笑ったフェルディナンド様は、見惚れるわたしの手に「帰ってから読んで」という言葉と共に一通の封筒を押し付けると、唇の前で人差し指を立ててこちらの質問を封じてしまった。




