*8* またオープニングかと思った。
完結予定がどんどん延びててすみません(*T^T)
風が吹いただけで肌が切れそうな冬の寒さが緩み始めた。壁の暦はもう三月も残り少なだと教えてくれる。
今回四月の最終公演についてこれまでよりも衣装集めが難航していたが、それもようやく終結の目処がついたとアンナが嬉しそうに報告に来たのは夕方のことだ。何でも急遽加えられた場面に結構な数の揃いの衣装が必要で、それも普通のドレスや服ではなかったらしい。
らしい、というのは今回も私は脚本も小説も一切読ませてもらっていないので、細かい情報が分からないのだ。アンナは『当日のお楽しみよ』の一点張りで、新聞にも公演の日にちと劇団名しか載せていない徹底ぶりだし。
そんなこんなで聞き囓った情報を要約すると、他所の劇団に借りれないではないが、普通に考えて敵に塩を送りたがるようなところは少ないとかで、加えて統一感を持たせようとすれば同じ仕立ての物が良い――といった感じ。
唯一規模が大きくなったのだろうと察せられるのは、公演場所が王都で一番大きい劇場になっていることだろう。我が妹ながら期待値を上げてくれるものだわ。
当然これだと探せるあては一気に減る。演者である団員達は当然練習でかり出すこともできず、脚本家二人と統括する団長も動けない。舞台演出のフェルディナンド様も最後の公演にはこれまでで一番時間をかけたいだろうから、声かけはなし。
結果アグネス様やガンガルの手まで借りて衣装集めに奔走していたのだけれど、あっという間に三月も残すところあと一週間というところまで消費されてしまった。おまけに私はそれにも参加させてもらえない始末。非情である。
――とは思いつつ。
「あー……頭、痛い……」
ついに痛みに負けて目頭を押さえ、書きかけの新遊戯盤イベントを退けてペンを置く。屋敷の皆に起きていることがバレないよう、ランプの光量を極限まで絞っているせいで起こる疲れ目かもしれない。まだ三徹目なのに軽い吐き気がした。
ここ数日転生した直後以来、久々に誰かに錐で頭蓋骨を貫かんとされているような痛みが私を悩ませている。一度死んだ身としてはこれ以上働くのはよろしくないと、精神より先に身体が拒絶反応を示しているのだろう。
肉体は前世よりちょっぴり若くなっているはずなのに、精神的に前世より踏ん張りが効かなくなっている気がするのは、私が人に頼ることを覚えてしまった弊害だなとつくづく感じる。
二月は何とかアグネス様の力を借りられたおかげで、女の子向けの遊戯盤が一つほぼほぼ完成形まで持ち込めた。これについては盤となる織物のデザインサンプルが工房から上がってくるのを待っている。
いま手がけているのはそれとは別口の男の子用……というか、いつもの軍略系の遊戯盤だ。今度は男爵家や子爵家の人達から、次男三男のために叩き上げ系のものをとご注文が入っている。確かに成り上がりものは人気があるし、舞台や小説にもしやすい。これを断る理由があろうか。否、ない。
思えば最初は教え子を逃がす軍資金を稼ぐために始めたこの事業も、たくさんの人を巻き込んで随分大きくなった。教え子が幸せになったいま、今後は領地の皆やこっちで劇団に入ってくれた彼等や彼女等に還元しなくては。
それに忙しくしている方が、アグネス様とフェルディナンド様のことで悶々とすることがなくて良い。働いて悩みを散らす。一石二鳥の完璧な布陣ではないか。
「せめて今夜中にあと六パターンは絞り出そう……皆も頑張ってるんだから」
ペンを手離した右手で、目の前に積んである手紙の束を引き寄せる。一週間ずつ空いている封筒の消印。中身はパッと目を通しただけだとお役人の連絡事項のようだ。それでも時々挟まれる不器用な“会いたい”や“声が聞きたい”といった思慕の言葉が、私の心臓を止めにかかってくる。
現在調停中の空白領から送られてくるホーエンベルク様からの手紙は、恋文と呼ぶには生真面目すぎるし、経過連絡にしては甘すぎた。ただ、返事を書く間は何とも形容しがたい感情が胸中を埋めてしまって。そのときだけは手紙の返信内容の他は何も考えられなくなる。
父が大人しく私達の婚約を許してくれたのは少々意外だったけれど、やっぱり嫁き遅れの長女が心配だったのもあるに違いない。婚約を認められてから未だに顔を合わせていないものの、見知らぬ人というわけでもないから大丈夫……な、はず。
ホーエンベルク様の生家で、ゴーティエ子爵家の現当主である弟君とはまだ手紙のやり取りはないけれど、あちらのお母様とは手紙をやり取りさせて頂いた。だってね……だいぶ昔に家を出た長男が嫁き遅れと呼ばれる歳の、それも以前はあまり社交界で良い噂のなかった令嬢と婚約するのだ。心配になるだろう。
ただし双方ともそれなりに良い歳なので、もう“この度ご長男と婚約させて頂くことになりました”くらいの軽い挨拶だけに留めた。ホーエンベルク様にその旨を報告する手紙を出したら、それで大丈夫だとの返事も頂いている。この件はこれで終了。だからあとは――。
「早く四月になれば良いのに……って、あー……もう、本当に痛いなぁ。これは、今晩はもう、寝た方が良いのかも……」
ズキズキとキリキリが交互にくる偏頭痛に効く薬がない世界なのが恨めしい。途中で仕事を切り上げるのは悔しいけれど、歩けるうちにベッドに――……と、立ち上がりかけた瞬間。世界がいつかのようにプツンと音を立てて暗転した。
――ユラ、
――――ユラ、
――――――ユラ。
水の中をたゆたうような浮遊感と、合間に走る鈍い痛み。そんなものを感じながら次に目を覚ますと、心配そうに私を覗き込んでいるアンナの顔があった。あらやだ、この状況何だかとっても見覚えがあるんですけど……ね?
不安要素しかない状況に喉を鳴らしたそのとき、目の前にいたアンナをそっと横に押し退けて、以前ガンガルを診てくれたお医者様が現れた。それから……その背後に立つ父とガンガル、あとはまだここにいるはずがない人まで。え、これって本当にどういう状況?
「ああ、ようやく目を覚まされましたか。どこか痛むところはございますかな?」
「……ええと?」
「おやおや、何も憶えておられませんか。貴女は今朝この部屋で意識を失っておられたのですよ。わたしの見立てだと原因は恐らく過労でしょう」
老医師がそう言って柔和に微笑むその背後で、アンナと父から黒いオーラのようなものが見えた……気がした。ガンガルは二人の様子に一瞬怯えたものの、こちらに向かって頷いている。残る一人の顔は、申し訳なさすぎて直視できない。
もう一度「して、痛みはありますかな?」と問われたことに「頭痛が少し」と答えれば、老医師は「若いからとあまり無茶な仕事の仕方をなさってはなりませんよ」という言葉と一緒に、幾つか生活態度への注意点と薬を処方して席を立つ。
アンナと父がもの凄く何か言いたげな視線を寄越しつつ、それでもお医者様へのお代の受け渡しとお見送りのためにそのあとを追って部屋を出て行くと、残るのは心配そうに私を見つめるガンガルとホーエンベルク様の三人だけになった……が。
「お嬢、喉とか、渇いた? 何か飲む?」
「え、ええ」
「ん。分かった。ならミルク増し増しジャム入り紅茶、持ってくる。ヴィーは、お嬢がベッドから出ないように見てて」
「はい? ちょっと待っ――、」
斜め上の気遣いを提案したガンガルは、全力で地雷っぽいメニューにこちらが異議を唱える前に部屋を飛び出していく。当然部屋のドアは全開。廊下から心配そうに使用人達が覗いている。
困惑しつつも彼女達に「お客人には普通の紅茶をお出しして」と声をかけると、部屋の外に二名ほどを残して紅茶の準備をしに下がってくれた。
――でも、だ。
ドアは全開で部屋の外に二名いるものの、室内は私とホーエンベルク様の二人きりになってしまった。気まずいこと山の如し。チラリと顔色を窺うために視線を上げれば、そこには最後に見たときより少し窶れた彼の姿があった。表情が無だ。
「あの、ホーエンベルク様……予定よりもお早いお戻り、ですね?」
どういった言葉をかけるべきか戸惑いつつも試しに声を出せば、彼は若干覚束ない足取りでベッドに近付いてくる。そうしてベッド脇まで無言でやってきた彼は、不意にその場で跪いて私の頬に触れ――……軽くつねられた。
「手紙に、早く貴方に会いたいと、声を聞きたいと書いた」
その言葉と声に含まれた焦燥と甘さに思わず「私もでした」と言葉が零れて。ついでに巻き戻って居なかった安堵で滲んだ涙は、彼のシャツに攫われた。




