*7* 箱の隅に蝶はいるのか。
――私は弱りきっていた。
目の前の机には様々なドレスや装飾品のデザイン画が広げられ、窓の外の白一色の世界などないかのように、色の洪水を起こしている。自分のクローゼットには並ばないドレスや装飾品の数々に頭がパンクしそうだ。
「今日はこの中からドレスを七種類、装飾品を十二種類選んで欲しいと工房から依頼されているのですが……」
縋る思いで正面に座るアグネス様を見つめると、彼女は「うふふ、大丈夫ですわベルタ様。ここはお任せ下さいませ」と頼もしい言葉を口にして、暗めの赤い口紅を引いた唇の前で人差し指を立てた。
本日は一月二十日。
現在地は王都のスペンサー家のお屋敷にあるアグネス様の自室だ。
――私は弱りきっている。
それは何もこの膨大なデザイン画の中から、依頼された品に相応しいものを探しあぐねているからだけではない。
お見合いの絵を描いてもらう専用のお部屋とは違うものの、窓から庭を一望できることには代わりないアグネス様の自室は、彼女らしく可愛い猫足の家具で統一された居心地の良い部屋だ。
ただ窓の外は当然のことながら一面の雪景色で、本当に話したい話題に水を向けるまでの天気や気候の話をさせてはくれないものだった。
私が本当に話したい話題。それはいまから一ヶ月前に終わってしまった、王国友好芸術文化賞の夜のことについてである。けれどこの一ヶ月悉く話題に上げることができていない。きっと今日もできないのではないか。
そんな後ろ向きなことを考えながら、目の前で真剣にデザイン画を吟味してくれている親友の旋毛を、ぼんやりと眺める。
「どれも素敵で迷ってしまいますが、全部をというわけにも参りませんもの。追加要素はこのドレスとこちらのドレス、あとはこの辺りで……装飾品だとこの辺かしら~? どうせなら着回しができるものが良いですわね~。ベルタ様はこの中ならどれがお好きですか?」
ホワホワとした心地良い声の親友の指先が示すデザイン画に視線をやれば、確かにとても女の子の喜びそうな柔らかな色彩の繊細なドレスがあった。そこでフッと肩に入っていた力が抜ける。
昔から色々とある品物の中からこれという物を選ぶことが苦手な私は、示された物の中から絞り込むことはできた。情けない話その物が持つ魅力を教えられ、認識できてようやく選べるのだ。
「ええと……」
「大丈夫ですわ~、ゆっくり考えて下さいませ。たとえばホーエンベルク様とお出かけするなら、この中でどのドレスにどの装飾品をお付けになられます?」
彼女の口からいきなり消える魔球並の技を心臓に受けて、心理的な障壁がバキバキに割れて砕け散った。この一ヶ月、何かしら察知されているのではないかと勘繰ってしまうタイミングでの牽制球。
チキンハートな私は結局今日も今日とて、あの夜入手してしまった彼女の心の欠片について触れることができずにガールズトークへと舵を切り、次の約束のためスペンサー屋敷を後にする時間になって。
迎えの馬車に乗っていたガンガルが浮かないこちらの表情に気付き、それでも見送りに出てきてくれているアグネス様に悟られないよう、いつもの表情で馬車に乗り込むのを手伝ってくれた。
***
「成程、それで今日もおめおめと逃げ帰って来たわけですか」
紙とインクの匂いが満たす室内。アグネス様のところから次に訪ねて来たのは、かつて私達が利用していた秘密基地。そこの新たな主は、心底面倒臭そうな空気を隠そうともせずにそう言った。しかし悔しいかなその言い分は正しいので言い返すこともできない。
一応内緒話の体を保つためにガンガルは続きの間で待ってもらっているが、ここにいたらこの人物の口を捻り上げそうである。
「くっ……その通りです」
「一ヶ月も前のことなのでしょう。もう余計なことは考えずに、これまで通りに接していけば良いのではありませんか? ボクも四月の五国戦記の最終公演に使う脚本の一部を任されているので暇ではないんですよ」
常なら無表情なその顔に、若干呆れの色を滲ませてお徳用紅茶が湯気を立てるマグカップを勧められ、会釈しながら自分の方へと引き寄せる。代わりに私からも頭の回転を上げるための供物としてクッキーを差し出した。
「私は彼女の秘密を一方的に知ったまま親友の座についていたくないのです」
「では謝りますか、アグネス嬢に。“彼に惚れられたのが私でごめんなさい”と」
「イザーク様は私と彼女に修復不可能な関係性になれと?」
「そうは思っていませんよ。ですから最初に“これまで通りに接していけば良いのでは?”と言ったはずです。遅かれ早かれこうなることは、以前僕が手がけた脚本で暗喩していたはずですが」
それはその通りである。だからこそ私は彼女の秘密を最初に知ってしまったとき、真っ先にランベルク公爵の事件についての聴取を終え、元のアパルトメントから新たにここへと居を移した彼を訪ねたのだ。
「第一何故貴方が婚約者になったホーエンベルク殿にその話をせず、ボクに相談を持ってきたのかがまずもって謎です」
「それは、イザーク様も私と同じでいままで友人がいた風には思えなかったから」
「おや、もうお帰りになりますか?」
「すみませんでした。いまのはほんの冗談です。出来心」
ペロッと出てしまった本音に彼が絶対零度の微笑を口許にたたえたので、慌てて謝る。少なくとも私が知る限り、恋愛話においてこの人は随一の客観的な目を持っているのだ。追い出されてなるものか。
何より恋愛を嫌っている当人が一番そういった機微に詳しいのは気の毒ではあるが、真理であるとも言えるだろう。
あの夜。お酒に強いアグネス様が珍しく前後不覚になるくらい酔い潰れて、彼女と約束していると言っていたフェルディナンド様に背負われてきた。それだけなら式典で羽目を外したのだろうと思えただろう。
――けれど違った。
彼女の名誉にかけて泊まらせてもらう予定だった城の部屋に運べそうもないと判断した私達は、近くの休憩室にアグネス様を運び込み、私も一晩そこで一緒に休むと妹に伝えてくれるよう、ホーエンベルク様達に伝言を任せた。
二人だけになったところでベッドで眠る彼女に近付き、寝苦しくないよう髪をほどいて化粧を落とし、ドレスのコルセットを緩めて下着だけにしようとしていたそのとき、胸の谷間から破れた紙片を発見してしまったのだ。
何故こんなところに? とは思ったものの、その中身を読んだ直後に後悔した。それは彼女が義理の弟を迎えてまで守りたかった恋心だったからだ。しかも手紙の大半は途中で破れて失われていた。
「親友の知られたくないことに気付いてしまった罪悪感も勿論ありますが、私がそのことでホーエンベルク様や家族に頼るのはズルい気がして。フェルディナンド様に直接尋ねるのはもっての他です。だってむしろ彼女は――……」
「フェルディナンド殿に想いを寄せられた貴方に自分の想いを……いえ、互いの気持ちを成就させた貴方とホーエンベルク殿に気付かれたくないのでは、と。そう思うのですね?」
イザークの言葉にマグカップの紅茶を見つめ、無言で頷く。彼女は優しい。ホーエンベルク様やフェルディナンド様もそうだ。優しくないのは私だけ。私だけが身勝手に怖がっている。
「特にホーエンベルク殿とフェルディナンド殿は昔からの絆があり、簡単に断たれる関係性でもない。今回のようにいつか欲しいものが被るときのことも、どこかでお互い理解していたはずです。でも、貴方と彼女は違った」
図星を指されてギクリとした。この人の指摘の鋭さは一種悪魔じみたものがある。聞きたくないのに先を聞いて、一思いに楽になりたい自分がいた。
「出逢ってからの年月は先の二人と比べるべくもなく、繋がりも脆弱ではないにしてもまだ不確か。そこに愛だの恋だのが絡めば簡単に交流が断たれてしまうかもしれない。それが貴方は不安だと」
「私にとってアグネス様は、初めてできた同性の友人……いいえ、これから先の人生を総動員しても、同性で一番の親友なのです」
「重いですね。けれどまぁ、いまはそこはどうでも良いかと。要するに貴方はホーエンベルク殿達にも嫉妬しているわけだ」
紅茶の入ったマグカップを左手に、右手にペンを握った彼は凄まじい勢いで真白い紙を文字で埋めていく。どうやら彼に搭載された何かのスイッチを押してしまったようだ。
「切っても切れない関係。彼等の持つそういうものに貴方は嫉妬している。別にそれで良いじゃないですか。人間らしく醜くて、脆くて。ボクは好ましいと思いますよ。観客を物語に引き込むのは、いつだってそうした“人間らしさ”です」
そう言いながら今日ここを訪ねて以来一番良い表情で微笑んだ彼を見て、思わずテーブルに突っ伏したけれど。その私の頭上から「時間が解決しますよ」と。長年母親の仇を追い続けた執念の男は、どこか確信と愉悦を込めて言ったのだった。




