*6* “たぶん”は“きっと”。
「大事なお話の途中であんなことになってしまってすみません……」
「ベルタ嬢、頭を上げてくれ。あれは驚かせた俺のせいだ。むしろこちらの方が配慮が足りずに恥をかかせてすまなかった」
「そんな、あれは私の不注意です」
「そもそも人目のある場所で無神経すぎた」
向かい合って頭を下げ合う耳に、先程までいた会場の賑やかな音が聞こえてくる。あの私がグラスを落とすという失態をおかした直後、ミステル座の皆がいる方角からトレイかカトラリーを落としたような金属音がして、こちらに向いていた周囲の視線が減った。
そこにグラスが割れた音を聞きつけた給仕係の人達が、モップと塵取りを手に来てくれて、手際よく片付けてくれるついでに、私達を会場内から控え室に続く廊下まで連れ出してくれたのだ。
唯一心配なのは、あの音の発信源がアンナだったらどうしようということである。怪我などしていないだろうか。もしくはさせていないだろうか。ただタイミングが良すぎる気もしたから、もしかするとあの場でやらかした不甲斐ない姉を庇ってくれたのかもしれない。
どちらともなく黙り込んだのち、ぎこちなく笑い合う。それだけで胸の内側が温かくなるのはきっと、もう自分の答えが出ているからだ。フェルディナンド様からもらった勇気を行使するならいま。この人を“男性で一番の親友”にすることはできないから。
「――……貴方に怪我がなくて良かった」
常なら鋭さを感じさせるその目が優しく細められる。言葉のままに安心した様子で吐き出される溜息も、眼差しも。いつからか気になって。いつの間にか初めてのこの感情に捕らわれていた。
「ベルタ・エステルハージ嬢。先程会場で告げた言葉に重ねる形になるが、どうか聞いて欲しい」
目の前で長身な彼が跪き、その深い声で名を呼ばれる。ホットワインをほとんど床に飲ませてしまったせいでカラカラに渇いた喉から「はい」と応えた声は、自分のものとは思えないほどか細く震えてみっともなかった。それでも、この先を聞きたい。聞いて、自分の言葉でこの難問を回答したいのだ。
「最初は騎士という仕事を辞したばかりの頃、次に与えられたまったく畑違いな役職に怖じ気づいて休暇を消費していたときに、偶然貴方の領地に足を踏み入れたことがきっかけだった」
「ええ……憶えております。あの当時は、急に目の前からいなくなった貴男を夢か幻だと思っておりました。領主代理としては、あれからしばらく貴男の正体が盗賊か何かではないかと気が気ではなかったので」
懐かしみつつも思わずやや詰る響きを含んでしまった私の言葉に、ホーエンベルク様が「すまなかった」と苦笑する。可愛げがないとは分かっているけれど、これだけはどうしても言っておきたかったのだ。
馬で領内の視察を増やした当時のことを思い出したものの、長年寝かせていた苦情を言えたことで溜飲も下がった。話の腰を折ってしまった非礼を詫びて先を促すと、彼も頷いてくれる。
「再会してからは貴方の教育方針と手腕に興味を持ち、貴方の教え子であるアウローラ嬢を、フランツ様の婚約者候補に推薦したいという打算で貴方に近付いた」
「最初の頃はアウローラ様に近付く方は誰であれかなり警戒しておりましたから、なかなか諦めないホーエンベルク様のことが少々怖かったですわ」
「それも……本当にすまない。あの当時はフランツ様に一人でも味方を増やすことが自分の命題だと思っていた。だが途中からはその気持ちが徐々に形を変えていって、貴方という個人に惹かれていったんだ」
こちらを見つめる彼の熱を帯びる双眸と声音に、心臓が痛いくらいに脈打ってこめかみがジクジクと痛む。しかしここに至ってまで可愛げのない言葉を吐ける自分に戦慄する。父譲りなのだろうか。きっとそうに違いないと、ここにいない父に自分の可愛げがない全責任を丸投げする。
それでもなんとか「ありがとうございます」とは言った。自分でも何のお礼だとは思うけど。けれど緊張しているのは彼の方でも同じらしく、ギギギと音がしそうなほどぎこちなく頷いてくれる。
「初めて出逢った日から今日まで、俺の中で日を追うごとに貴方の存在は大きく、かけがえのないものになっていった。フランツ様とマキシム様のお二人の関係が良好になり、アウローラ嬢の身も安泰となったいま、貴方は領地に戻ってしまうかもしれない。そう思うと――……いてもたってもいられなくなった」
その射るようだった視線が床に落ち、大きな身体が一瞬縮んだような錯覚を覚える。二十五歳の悪人面令嬢をまさかそこまで高く評価してもらっているとは……嬉しいを通り越して申し訳ない気持ちになる。見つめる先で瞬きを三度。再び顔を上げた彼の唇が開いた。
「貴方を愛しています。他の誰にも、渡したくない」
向けられる視線で火傷をしそうだと思った。この人と一緒にいたいと思った。前世で異性に対して抱いたことのない感情に、戸惑うと同時に身体の内側から細胞が生まれ変わる気がした。
「私も……貴男を愛しているのだと、思います。たぶん」
「“たぶん”」
「ええと……その……家族や領地の皆や、アウローラ様や、マキシム様やフランツ様。フェルディナンド様に、アグネス様。そういう大切な人達と少し違う感情を、ホーエンベルク様に感じるのです。だから“たぶん”そうなのだろう……と」
低くオウム返しされたことで気を悪くさせたのだと思い、慌てて覗き込むように屈んで言葉を重ねたところ、彼は跪いたままの姿で私の右手をとり、その甲に唇が触れるか触れないかのキスを落とした。
「こんなに嬉しい“たぶん”は生まれて初めてだ。ありがとう」
初めて見るホーエンベルク様の少年のように無邪気で朗らかな微笑みに、内なる私が小娘のような悲鳴を上げる番だった――……が。
「あー……何か、良い雰囲気なとこに、割り込むのは、心底悔しいし、本当、心苦しいんだけど、」
馴染みのある声が聞こえてここが廊下であることを思い出し、恥ずかしさで悶えたくなった。ホーエンベルク様も少なくはないダメージを受けつつ、立ち上がって「エリオットか?」と廊下の角に向かって声をかける。
すると私達が会場から出てきたのとは逆方向の廊下から、ズズズと引きずるような重たい足音がしてフェルディナンド様が姿を現した。彼は私と目が合うと、眉根を下げて笑ってくれた。
「ご名答だけど……ベルタ嬢、ヴィー……ごめん、あんまり他の連中に、見せられる状態じゃなくて。ちょっと、手伝ってもらえると助かるんだけど」
何故か息も絶え絶えなのは何でだろうかという疑問はある。あるけど何だかそれどころじゃない感じだ。前後左右にフラフラしていて危なっかしい。なのにそこまで酔っているにしては意識と口調がしっかりしている。
「じゃ、邪魔だなんてあり得ませんわ。手が必要なら幾らでもお手伝いさせて頂きます。けれど、あの……アグネス様はご一緒ではないのですか?」
「いま、オレの、背中にいるよー」
「お、お前な……ドレス姿の女性を背負う奴があるか」
告白場面をさっきのいまで見られることになった動揺で声が上擦った。ついでに舌もちょっと噛んだ。心なしかホーエンベルク様も突っ込みにキレがない。
「絵描き相手に、無茶言うなヴィー。オレだって、横抱きの方が良いのは分かってるよ。でも無理。アグネス嬢が重いとかじゃなくて、純粋に、力が足りない」
そう言いながら、背中からずり落ちそうになっているらしいアグネス様を背負い直すフェルディナンド様の姿に、◯トロのワンシーンを思い出した。雨のバス停で◯ツキが◯イを背負い直す、あの有名なシーンだ。
「ヴィーは、出かかってるそのお小言飲み込んで、オレが良いって言うまで、目を瞑ってて。ベルタ先生は、アグネス嬢を下ろす間だけ、少し支えてくれるー?」
乞われるまま後ろに回り込めば、際どい姿勢でしがみつくアグネス様を隠すように、フェルディナンド様の上着とベストが覆っていて。繭玉のような状態のそれを剥くと、ただただ幸せそうな微笑みを浮かべて眠る親友が現れた。




