*5* 心の準備が空回り。
アグネス様と約束をしていたと言うフェルディナンド様を見送り、人と人を隔ててホーエンベルク様と戸惑いつつ見つめ合っていたものの、どうにか合流して人気の多い会場内の中心を避けて隅に寄った。
たぶん私の泣き跡に気付いて配慮してくれたのだと思う。彼は何も訊かずに一度離れたのち、その手にホットワインを持って戻ってきてくれた。泣いていたことがバレたのは恥ずかしいけれど、彼の心遣いがありがたかった。
「ベルタ嬢、ホットワインは嫌いだったか?」
「あ、いえ……そんなことは。ただ猫舌なもので」
蜂蜜入りの甘い香りを含んだ湯気の上るグラスが、寒い屋外から戻ったばかりの指先をじんわりと温めてくれる。なかなかそれに口をつけないことを訝かしむホーエンベルク様に、慌てて小さな嘘をついてしまった。
ホットワインは好きだ。でも猫舌じゃない。ホーエンベルク様は歯切れの悪い私の言葉に何かしら感じた様子だったけれど、そこには言及せずに「そうか。ならゆっくり飲んでくれ」と笑ってくれた。
この笑みを前に確かめたいことがあるから素面でいたいんです、とは言えまい。あくまでこちらの話で彼には関係のないことなのだから。さっきフェルディナンド様がくれた告白のおかげで、どうしても“好き”という単語を妙に意識してしまう。
あの夜フェルディナンド様から求婚してもらったとき、初めて恋愛について考えた。前世でも今世でも自分の身には起こり得ないことだと思って生きてきた。完全なるカテゴリーエラー。
それでも心の中で形を持ち始めたこの落ち着かない感覚に、意気地のない私もいい加減名前を与えなければならない。腹を括ろう。そう思って湯気の濃さが薄くなり、温み始めたグラスを持つ手に力を入れた直後。
「エリオットは調子の良い奴だが、良い男だ」
「――え?」
「学生時代からいまと変わらず下らない遊びを教えに来る。面白味のない俺が騎士団に入隊して部下を持てるようになったのは、あいつのおかげだ」
そんな風に話し出したホーエンベルク様の横顔を見上げると、彼は当時を懐かしむように目を細めていた。いつからだろう。彼のこういう表情に、私の心臓が騒がしくなるようになったのは。
会話の意図が掴めないものの、穏やかなその表情をもう少し見ていたいと思って頷く。その反動で飲み損なったホットワインがグラスの中でゆらりと揺れた。
「そうなのですね。私は領地に歳の近い友人というものがおりませんでしたから、お二人の関係が羨ましいですわ」
「それは……いままで一人も?」
「ええ。と言うよりも、私は領地にいる間は領主代理の仕事で屋敷に籠るか、鍛練を積むか、馬に乗って領内を視察する日々でしたから。お茶会は苦手で必要最低限に留めておりましたので、歳の近い親しい方ができるはずがありませんでした。令嬢としては怠慢すぎますね」
いまや懐かしさすら感じるあの日々を思い出して笑えば、ホーエンベルク様が「そんなことがあるはずがない」と言い、真剣な眼差しで私を見下ろしていた。
目が合った瞬間、ドッと一際大きく心臓が脈打つ。隣とはいえ拳三つ分ほどの距離がある。この音に気付かれるはずはない。そう言い聞かせていたら段々と心音の方も落ち着いてきた。
けれど彼はそんなこちらの内面に気付いた様子もなく、次の言葉を探すように一瞬視線を彷徨わせ、目当てのものが見つかったのか再び口を開く。
「貴方が怠慢であるはずがない。むしろいつも頑張りすぎだと思う。もしも貴方を怠慢だと揶揄る人間がいるのなら、それはただの醜い嫉妬だと断言できる」
「そう……なのでしょうか」
「ああ。ベルタ嬢はもっと自分に自信を持った方が良い。そうでないと今後貴方に陰口を叩く者達の命が危険に晒される。いまや身分の関係なく国内外に貴方を信奉する者は多いのだから」
「ふふ、ホーエンベルク様がそのような冗談を口にされるだなんて。ですがそうですね。教え子の恥にならぬよう気を引き締めて参ります」
至極真剣に下手な冗談を言って和ませてくれようとするホーエンベルク様に、ほんの僅かではあるけれど緊張が緩む。
冗談がやや血生臭いのがちょっと気になるけど、確かにいつまでも私が周囲の悪口ばかり気にしていては、王家に入る教え子にまで傷が付いてしまうというもの。どうにも取り組んだことのない難問を前に弱気なってしまっているようだ。
今度はこちらの表情の変化に気付いてくれたらしい彼は、頷いて「是非そうしてくれ」と言う。その言葉のあとに一拍分空いた間に、すっかり冷めたワインに口をつける。冷めたことで分離したハチミツの甘さとワインの渋味が舌を刺激した。
チラリと隣を見れば、ホーエンベルク様は白ワインを選んだのだろう。中身の入ったグラスを手にしたまま飲むでもなく見つめている。顔色からは酔いの気配を感じないが、もしかするとさっきまで他の人達に散々勧められていてもう飲めないのかもしれない。
「あの、ホーエンベルク様。お酒が召し上がれないのでしたら、このグラスを返しに行く代わりにお水を頂いて参りましょうか?」
別に一旦この場から離れて体勢を立て直そうとか、覚悟を決め直そうとかいう小狡い魂胆では……若干あるけど、半分は本当に飲めないのなら無理に飲む必要はないという純粋な気持ちでの申し出だった。
しかし彼は私の言葉にハッとしたかと思うと、ややバツの悪そうな表情になって。会場内の声と物音に紛れて聞こえなくなりそうな小声で「これは、ただの水なんだ」と言った。何故そんな表情でその台詞を? と問いたくなるほど頬を染める成人男性の姿に思わず「ただの水」と復唱する。
そんな私の声に居たたまれなさそうにホーエンベルク様が頷く。何が何やらさっぱり分からないけど、自分より歳上の男性が可愛く見える。
「どうしても、酒の力を借りないで素面で貴方に伝えたいことがあって。いまからそれを聞いてもらっても構わないだろうか」
「は、はい、どうぞ」
「だが、まず第一にエリオットは本当に良い男なんだ」
「存じ上げておりますよ?」
「学生の頃からの付き合いでほとんど腐れ縁のようなものだが、それでもかけがえのない友人だと思っている。好きなものも、いつの間にか自然とお互いが口にしなくても当てられるようになっていた」
「まぁ、以心伝心というやつですね。素敵なご関係ですわ」
妙だな。気のせいでなければ話題が最初に戻っている気がする。でも明らかにそのことを指摘できる空気じゃない。だってホーエンベルク様の表情は苦しげに歪んでいるのだから。
「だというのに情けない話だが……この歳になって、初めてエリオットと分け合えないものができてしまった。あいつの方が相応しいと分かっているのに」
水の入ったグラスを握り潰してしまう前に彼の手から抜き取ると、一瞬だけ眉間の皺をなくしたホーエンベルク様にお礼を言われた。
頷き、視線で先を促す。苦しそうな彼に対してそうすることしかできないことに、もどかしい気持ちが募った次の瞬間――。
「ベルタ・エステルハージ嬢。本来俺のような人間が口にしては許されない言葉だと分かっている。それでも俺は、貴方が好きです」
告白の仕様まで似ているとは思わずに、私は言葉を失って持っていたグラスを両方とも手から取り落として盛大に割り、集めなくても良い会場内の注目を集めてしまったのだった。