▣幕間▣失恋ワインは良く回る。
一世一代の告白は思った通りの結果だったけど、やりきった感覚を胸にバルコニーから会場内に戻ったら、すぐにヴィーの姿を見つけた。あの様子だとここにオレとベルタ先生がいたことに気付いてたんだろうに……何で邪魔しに来ないかなー。
親父さんの代わりに戦場に行って、家のために人を殺して、そんな思いまでしたのにその家族からすら距離を取って弟に家督を譲って、今度は好きな子への告白の順番まで譲るとか……馬鹿すぎ。ヴィーは昔からそうだ。すぐに自分が我慢すれば良いって諦める。
そう思っていたら斜め後ろ隣にいたベルタ先生もヴィーに気付いたらしい。泣き跡の残る顔でアイツを見つめる視線は、オレを見るときとは全然違った。役者が違うってこういうことを言うんだろうなって感じ。けど不思議と悪い気はしなかった。たぶん相手がヴィーだからだ。
「ベルタ先生、オレ先にアグネス嬢のところに戻ってるからさ、あとから来てよ」
「……え……どうしてですか?」
「フラれた直後に一緒に帰ったら誤解されるじゃん。その点別々に戻ったら何も言わなくても“あー、そういうことか”って納得してもらえるでしょ?」
わざと少し意地の悪い言い方をしたら、案の定ベルタ先生の表情が困ったようなものに変わる。我ながら性格が悪いとは思いつつ、その表情の中にオレを振ったことに対する罪悪感が見えることがほんの少し嬉しかった。
ヴィーに向けていた視線をこっちにずらして、その意思の強そうな瞳の中にオレを映してくれることが。でもこの感情は駄目だ。どんなに綺麗な絵具も全部を混ぜたら黒くなる。
芸術家なら綺麗なものしかいらない。たぶんこれは不真面目なオレの初恋だった。だったらそれはエステルハージ領で見た、あの美しい湖畔のようなものであって欲しい。恋が終わっても絵の一枚が描ければ画家のオレは生きていられる。
「なーんてね、冗談だよ冗談。今夜は元からアグネス嬢との先約があったの。それをベルタ先生が急に予定をねじ込んできたから狂っちゃったんだよ。だから先に戻るねってこと。分かった?」
「あ、え……なん……そうだったのですか? 私ったら自分のことばかりでっ……申し訳ありません!」
「うんうん。そういうことだから、それじゃまたあとでね。あ、でも会場内を一人で歩いてたら変なのに声かけられるかもだから、あそこで手持ち無沙汰に突っ立ってる奴でも使ったら良いよー」
雑な会話の打ち切り方をしてヴィーの方に手を振れば、あっちもあっちでこちらの意図に気付いたらしく難しい顔をしてるけど、もう知らない。円満とはいえ失恋したんだ。あとはその報告を片想い仲間のアグネス嬢にして、まだ自信を持てない彼女に発破をかける番。
そのつもりでミステル座の面々がいた場所まで戻ると、オレが戻るのを待ってくれていたのか、祝杯で盛り上がっている団員達から一人離れたところに立っていたアグネス嬢が駆け寄って来てくれた。
「そちらの首尾は如何でしたか~?」
「アグネス嬢はどっちだと思う?」
「美味しそうなワインがあったので、ボトルを一本丸ごと持ってきましたの~。お好きな銘柄だと良いのですけれど。どこか静かな場所で飲みません?」
「ん……良いね。賛成。ワインもオレの好きなやつだ」
言葉を多く重ねなくても、眠っているようでもあり、笑っているようでもある彼女の目は、時々人の心をひどく深く見透かす。そのことにどこか救われた気分を感じながら、二人でこっそり会場の端にある少し窪んだ位置に身を寄せた。
――……、
――――……、
――――――……で、一時間半くらい経った頃。
会場内は相変わらずご機嫌な空気が漂っていて、オレ達の足許には六本目のワイン瓶が並んでいる。羽目を外すのは簡単で、一本目のワインを飲み切ったところでついポロッと『フラれたよー』と言ったら、その言葉を聞いた彼女は『良く頑張りましたわ~』と頭を撫でてくれた。年齢的にはこっちの方が上なのに。
「えっとー……それでどこまで話したんだっけ……?」
「うふふ……領地経営学を放ったらかして、絵で身を立てようと調子に乗っていた時分に、お父上から本気の拳を食らって王都の学園に押し込まれた辺りですわ~」
「あー、その辺ね。当時もオレは根が不真面目で享楽的でひねくれ者だったからさ、優等生で教師受けの良かったヴィーを試してたんだ。何をどこまで横取りしても許してくれるのかって。あの頃は親と上手くいってなかったから、その八つ当たりに使ったんだ。悪趣味だよねー」
「そうですわね~、あまり褒められた趣味ではありませんけれど。これからのお付き合いの参考までにお聞きします。たとえばどのような?」
「ヴィーの好きな学食のおかずとか、使いやすくて気に入ってたペン、面白いって言ってた本、憧れてた上級生の女子――……とか? 何でもかんでも気紛れに取り上げては反応を確かめた」
失恋後のワインで饒舌になってる自覚はある。あるけどついつい聞き上手なアグネス嬢を前にしたら、昔話が止まらなくなっていた。まるで教会の懺悔室にいるシスターみたいだ。
ヤケクソ気味に当時の行動を思い出して挙げていくのに、眉を顰めることもなく「あらあら、それだけ聞くとどれも可愛らしいことですけれど」と笑う彼女も、ワインのせいで正気じゃないのかも。
今夜の彼女の装いは似合っているけど、不特定多数の狼が紛れ込んでいそうな会場内ではよろしくない。絶対に先に潰れたりできない状況が酔いが回るのを微妙に鈍くしていた。
「どこらへんが? はっきり言ってかなりなクソガキじゃない? 特に憧れてた上級生の女子生徒のとことかは」
気を紛らわせるために前髪のガラスビーズを弄ってそう尋ねるものの、別に確たる答えを求めているわけでもない。なのに――。
「ホーエンベルク様ご自身が心の内で“良いな”と思う程度で留まっていたのなら、まだ何も始まっていないのですし、取ったことにはなりませんわ~」
「んー、でもそれって屁理屈っぽくない?」
「いいえ~。取られたくなかったら、先に相談の形を取って“最近気になる子がいる”とか何とか牽制するものでは? そこまでしなかったのなら、その辺にいる犬や猫が可愛いから見てると癒される程度のものですわ~。もしくは――……、」
のんびりとした調子で鋭い考察をしてみせたアグネス嬢は、ふとそこで言葉を切って、ワイングラスを持った手を胸の前で考え込むみたいに組んだ。そのせいである部分が強調されて目のやり場に困る。
視線を下げるよりは顔に固定した方が誤解されないだろうと思って、結局正面から見つめる形に落ち着いた。こういうときに酔いの回り具合は目で見るものだけど、彼女の場合は難しい。
「男性の友情的なものかと。ホーエンベルク様のことならフェルディナンド様の方がご存知かもしれませんが、案外と近くにいると見えないものですもの~。ですから“全然気にもしなかった”ではなくて、フェルディナンド様なら悪いようには扱わないと思ったからではないかしら~?」
フワフワとした物言いもいつも通り。笑ったような目許も。ただよくよく気を付けて観察してみると、最初のうちは自立していたはずの彼女は、いまや壁に背を預けて立っていた。もうとっくに限界だったらしい。
それならもうこの無益な愚痴を止めて、彼女の告白に向けて発破をかけるべきだろう。何より正気なうちに彼女の好きな相手の名前を知りたい。
「そっか、貴重な意見を教えてくれてありがとう。でもさー、そろそろあの夜にオレとした約束を守ってくれると嬉しいんだけど?」
今夜はとことん意地の悪い奴でいこう。そう思ってわざとからかう声音で言ったのに、次の瞬間何故か彼女は手にしていた空のワイングラスになみなみとワインを注ぎ、一気に煽ってから――。
「ちょ……っと、アグネス嬢? どうしたの。親しい仲とは言え、男の前でどこに手を突っ込んでるの? あ、もしかして酔ってる?」
視線を遮るために片手で顔を覆ってはいるものの、直前に見た胸元――というか、谷間に手を突っ込んだ映像に動揺した。しかも「あら~? どこに……」とかいう声から何か探しているらしい。手伝えない場所にしまうな。
それから少しの間、頭の中で絵具の色を延々諳じていたら、ようやく「ありました!」の声が聞こえて。でも油断してすぐに手を退けたらとんでもないことになっていそうなので身構えていると、カサカサと紙を開くような音が耳に届いた。
「大変お待たせしましたわ、フェルディナンド様。ご安心下さい。今夜はわたしもフラレ仲間ですの~。んふふ、いまから……読む、ので……聞いて、下さ……」
という意味深な言葉を残して、声はそれきり聞こえなくなった。代わりに聞こえてきたのは寝息っぽい音で。恐る恐る手を退けて彼女のいた方を見ると、そこには元の頭の位置よりかなり下。
「あーあ……これはまた器用に……」
壁にもたれてずり落ちた状態のアグネス嬢が座り込んで眠っていた。その手にはややヨレた小さなメモ書きが握られていたので、読もうとしていたのはこれだろうとあたりをつけて目を通したら――。
「…………オレ達四人って、ホント馬鹿」
グルグルグルグル。
回るなら、酒の酔いだけで充分だ。