★32★ 紫煙と私怨。
昨日は城を抜け出して特別公演に向かったことがバレ、王子二人から小言をもらったあと再び残りの仕事を片付けている間に、また屋敷に帰らず城内で夜を明かしてしまった。
今夜戻ればそのことで屋敷の者達は渋い顔をするだろうが、昨夜途中で仮眠を挟まずにいたおかげで、それほど仕事に遅れを来すことがなかったのは幸いだ。何よりもあの夜以来ぶりに彼女に会えたことに、驚くほど安らぎを覚えた自分がいた。
――……とはいえ流石に少し眠い。
執務室から文官に手渡す資料をまとめたものを手に渡り廊下を歩きつつ、一時間ほど仮眠を取ろうかどうかと悩んでいたそのとき、前方でいつかのように紫煙を上げる煙草を片手に渡り廊下で一服している人物を発見した。
こちらに気付いて手招く彼の小脇に抱えられているものに見間違いがなければ、あれは俺が昨日彼女に貸したものだ。頷き返して足早に近付くと、彼の方も煙草を揉み消して待っていた。薄く張り付けられた年齢不詳の微笑みに、思わず背筋に嫌な汗が流れる。
「やぁ、ホーエンベルク殿。今日も良い朝だね」
「おはようございます、エステルハージ殿」
「うんうん、おはよう。それはそれとして……昨日は上着を貸してくれてありがとう。おかげで風邪をひかずに済んだよ。ただ少し大きかったかな」
にこやかにそう言ってコートを受け渡してくる彼とそれを受け取る俺の背後を、掃除にやってきたらしいメイド達が視線だけを寄越してそそくさと立ち去る。その姿が廊下の角に消えた直後、小さくはではあるが彼女達の黄色い悲鳴が聞こえた。
あの様子だと、昼頃にはとんでもない尾ひれのついた噂が立っているに違いない。そんな彼女達が立ち去ったあとにシレッと「娘には」と付け足す辺り、確実に確信犯だろう。
「エステルハージ殿……」
「何だ? 別に嘘は言っていないだろう。勝手な勘違いをするかしないかは、噂好きの小娘共の問題だ」
「そうだとしても、わざわざこの忙しい時期に面倒な噂を彼女達に提供してやる必要はありません」
「君の考えなど知らないな。私は娘達につく虫には容赦しない口でね。こんな男臭いコートをうちの娘に寄越すんじゃない。どうせ渡すなら新品を買って渡しなさい。それとも君はこんな上着一枚を、危険な目に合ったばかりの娘に届けさせるつもりだったのか?」
「いえ、昨日はベルタ嬢が寒そうに思えたからで、決してそんなつもりは……配慮が足らずに申し訳ありません」
さっきまでとは明らかに違う冷笑を口許に浮かべる彼の言葉に俯き、咄嗟に言い訳が口をついて出た。いまの気分を端的に表すとしたら、騎士団に配属されたばかりの新兵だ。父の死後すぐに学園を中退して入った、あの荒くれ者の集団の中。
我知らず喉が緊張でひくついたが、そんなこちらの内心を見透かすようにエステルハージ殿は溜息をついた。
「ふん……まぁ良い。君を呼び止めた理由は嫌味を言うためばかりではないからね。顔を上げなさい」
酷薄さを含んでいた声にやや柔らかな――というよりも、良からぬことを言い出す前置きのような甘さが含まれた。瞬時に嫌な予感に身体が強張ったものの、さりとて立ち去るわけにもいかずに言われた通り顔を上げるが――。
「アンナがベルタをリスデンベルクの式典に出席させなければ、将来孫が生まれたときにヨーゼフの両親に先に抱かせると脅してきてね。そんな脅しをかけられるのも辛いが、何より娘をとられた上に孫の初抱き権まで取り上げられては敵わないとは思わないか? 男親の悲劇だ」
「は、はぁ……」
「そこで出席を許可する羽目になってしまったんだが、君も当日別件であちらの国に用事があるそうじゃないか。八割方うちの娘達の安全に意識を集中させるついでに、向こうでの用事を済ませてきてくれないかい?」
事も無げにそう言うが、陛下からの特別任務に入る案件をどこで聞いたというのだろうか。しかも口ぶりからだと内容も予想しているだろうに、あちらの王族との接触をついで扱いとは……相変わらず底知れない人だ。
「それは別に構いませんが、エステルハージ殿が直々に同行するのでは何か問題があるのですか?」
「ん? んー……少し野暮用があってね」
珍しく歯切れの悪いエステルハージ殿の反応を訝かしんでいると、彼は懐から新しい煙草を取り出してその先に火を着け、一度深く吸い込んでから紫煙を吐き出した。不思議とこの人はこういう気怠げな姿が様になる。
「あれだ、逆恨みをする輩というのはどこにでもいるものだろう?」
「ええ、まぁ、そうですね」
「今回の一件に噛んだ人物達の中に随分懐かしい名前を見つけてね。それを始末しに行かなくてはならなくなった」
「そう言うことでしたら、ついでがあればこちらで処理しますが」
「普段なら面倒だからありがたい申し出だけど、今回は駄目だ。あれはついでじゃない。正真正銘私の獲物だ。私の手で仕留める。とてもではないがこの手で念入りに始末しないと気が済まない」
「エステルハージ殿がそこまでしようと思い立つ相手なのですか?」
ちょっとした好奇心が首をもたげてそう尋ねると、エステルハージ殿は笑いの混じった吐息と共に紫煙を吐き出しながら口を開く。
「そうだねぇ、色々すっ飛ばすけれど……妻の実父だよ」
「――――は?」
「彼女が命をかけて産み落とした命を奪おうとしたのは、実の祖父だ。私にとっては義父に当たる。あのクソ爺まだくたばっていなかったらしい」
一瞬言葉の意味を捉えきれずに間の抜けた声を上げた俺を嗤い、至極忌々しげに唇を歪める表情は、未だにその美々しさを社交界の婦人方に噂されるだけあるほどに凄絶で、血も涙も通わない石膏像の如く整っていた。
「そういうわけでこれから少々忙しくてね。本当はクソ爺の処分より娘達の勇姿を見に行きたかったところなのだけれど、こればかりは仕方がない。彼女との想い出の詰まった地を汚した罪をあの老いぼれに贖わせなければ」
苛立ちを紛らわせるように一息に吸われた煙草がジジジと燃え、その吸い殻は床に落とされずに彼の掌に握り潰された。微かに皮膚の焦げる臭いが鼻を掠めたが、エステルハージ殿は眉一つ動かさずにまた嗤った。
「しかし君もな、こんな気遣いだか無意識な執着心だか知らない行動を取るならもっとはっきりしろ。フェルディナンド家の子息くらい思い切ったらどうだ。大の男が距離をはかりあぐねる姿はみっともない」
図星を刺された。そう感じた刹那、同時に胸の奥で痛みにも似た怒りを感じる。他人の中で距離を測らずにどうするのかと。戦場という敵と味方の混在する地では、それこそが命を繋ぐ術だというのに。
しかし目の前で掌を眺めて自身の皮膚片と吸い殻を剥がした彼は、こちらの機微などどうでも良さそうに言葉を続けた。
「最終的に相手を選ぶのは娘だが、私も親だ。あまりに不甲斐ない男が相手なら娘に嫌われてでも反対する。そして私は現在悔いている」
「何を……ですか……」
「その昔妻が泣いて止めたとしても、この国から逃げた義父を捜し出して当時殺しておかなかったことをだよ。日和見をして易きに流れる弱い男は駄目だ。やるべきことを先伸ばしにして良いことなどない。おかげでベルタに怖い思いをさせてしまった。だから父親失格だとバレないうちにきちんと証拠を消しておく」
そう言うと彼は自嘲気味に「経験則というやつだ」と肩を竦め、次いで血の滲む掌に舌を這わせたかと思うと、いつもベルタ嬢やアンナ嬢に向ける微笑みを浮かべて口を開いた。
「死の床に臥したとき、娘達に妻のときのように泣いてもらいたいからね」
一度深く後悔した人間の纏う笑みは、どこか記憶の彼方に残る、いまはもう亡き父に似ていた。




