*30* 貸切り公演だよ、全員集合②
結構な人数になってしまったので、皆その場での挨拶もそこそこに劇場の中へと入った。半券なしで表から通されることに「関係者特権ぽくて良いですわね~」とはアグネス様の言だ。
通された劇場は最後に来たときと何もかわっていない。古い座席シートの匂いと使い込まれていくら洗っても埃っぽい匂いの取れない緞帳。公演中に踏む場所を間違えればそこそこ大きな音で鳴る床板。経年劣化で剥がれ落ちてくるから、皆で何度も塗り直した白い壁のペンキ臭。
そんなに長期間留守にしたわけでもないのだから当然のことなのに、何だかそんなことまでもが嬉しかった。同じことを感じているらしいフェルディナンド様とアグネス様が「ちょっと留守にしただけなのにねー」「何だか懐かしいですわ~」と笑い、ホーエンベルク様も「違いないな」と応じる。
アウローラ様とマリアンナ様も、普段は絶対に生活圏内にない匂いを胸一杯に吸い込んでいた。ただ無邪気な声で「今度何かペンキで塗ってみない?」「絵の具と同じようにできるかしら?」と不穏な発言をしているけど……聞かなかったことにしよう。
鼻が良いガンガルもこの場所の匂いは嫌いでないらしく、自ら進んでスンスンと鼻をひくつかせていた。各々貸切りならではの自由ぶりだ。
けれどいつまでも入口の受付付近で時間を潰していたら、先に奥へ戻っていったアンナ達が再び姿を現した。その後ろに鈴生りになっている団員達を引き連れて。
「いらっしゃいませベルタ様。本日は貸切り公演ですから、ゆっくりご覧になって下さいね!」
「観客がベルタ様達だけの貸切り公演だなんて領地を出て以来なかったから、何だか懐かしいです」
「おい止めろ。いつもより緊張するだろうが」
「領地にいた頃より演技が下手になってたら実家に強制送還だなー」
「そうなったら頑張って美味しい野菜作るのよ?」
私達が客席に着くやワッと周囲を団員達に取り囲まれて、好き勝手に話し始める彼や彼女等に圧倒される。
まるで大学の演劇部みたいなノリにほっこりしつつ、圧に怯えた様子でいる教え子を庇って「皆が元気そうで安心したわ。今日の公演は私もアウローラ様も楽しみにしていたの」と言えば、それまで騒がしかった団員達の顔付きが演者のものへと変わる。
「さて、感動の再会も済みましたし……今日は全部自由席だから、お姉さまも皆もミステル座の特別公演を楽しんでね!」
「そ、れでは、義姉上。あ、とで、感想を、聞かせて、下さい」
ややぎこちなさがあるものの、義弟は頭の一音をどもることなく喋る修練を積んだと見える。アンナはそんな夫を幸せそうに眺めていた。ぐっ……身内に萌える幸せプライスレス。イザークだけは口から砂糖でも吐きそうな顔で「そういうことらしいので、また後程」と言葉少なに舞台袖に消えていった。
「自由席となると……いつも通りの並びでなくても良いのですわね~」
「そうですね。自由席と言われると案外悩んでしまいますわ」
とはいえこの手の悩みはうっかり取れた平日の休みに、休みらしいことをしなければと思い込んででかける映画館でもよくある。
スクリーンの真ん前に陣取って迫力を楽しむか、映画の音を楽しむために反響を拾いやすいやや後列の壁際に陣取るか、画像をしっかり端まで観たいから中列のやや前に陣取るか、途中でお手洗いに行きたくなったときに誰の邪魔にもならない通路側を選ぶか――だ。
しかし私とアグネス様のそんな悩みは杞憂で、互いの教え子に腕を引かれて定位置に収まった。まぁそうなるよね。
ちなみに私とアウローラ様が舞台中列のやや前、アグネス様とマリアンナ様は舞台の真ん前、ガンガルは舞台全体を斜めに観られる壁際、ホーエンベルク様は私達と同じ列の四席向こう、フェルディナンド様は中列後方の真ん中に陣取った。
灯りが落とされる一瞬前に全員で目配せをし合った直後、劇場内は暗転する。ややあって舞台上に白い灯りが落ち、その明かりに照らし出されたのは銀のトレイに手紙を乗せたメイドと、その雇用主らしき青年だ。
青年はメイドの持つトレイから手紙を受け取ると、無言で退室を命じる風に手を振った。台詞のないメイドは一瞬主人を案じるような空気を残し、けれどやはり言葉も交わさず舞台袖へと去っていく。
「“ああ、やれやれ……まさかこちらが送り込んだ和睦の使者まで切り殺してしまうとは、やはり所詮かの国の王は獣の王か。いけませんねぇ、いただけない”」
ぽっかりと白い灯りが落ちる舞台の真ん中には、黒衣に身を包んだ男性が一人椅子に座っている。感情が抜け落ちたような虚ろなその声は、さっきいつもより緊張すると言っていた団員のものだ。長身の身体を丸め、脚を組んだ姿はどこからどう見ても神経質そうに見える。
緊張すると言っていた割には落ち着きのある良い演技。発声法を変えたのか、以前までより良く通る。今回は予備知識を入れずに来たから正真正銘初見の物語だ。本日の演目の主役は鷹の国。旗色は紺碧の地に銀で縁取を施した翼を広げた黒い大鷹。この主人公は何と言うのか……少し怖い?
「“正してやらねば、導いてやらねば、かの国の民を、我等の教義で。我等の神の懐は広く温か。獣の国の民とて慈しみ抱いてやれる理想のゆりかご。こうしてはいられない、我が君に聖戦の進言をしなくては!!”」
そう言うや否や、急に椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がった彼は、油が切れたブリキ人形のようにぎこちない動きで両肩を掻き抱くように身を捩る。その姿はまるでトランプのジョーカー。
その台詞と動きで隣から「ひ、」と教え子の小さな声が上がった。慌てて口を押さえてこちらを向いた彼女の肩を安心させようと抱き寄せる。今作の主人公は宗教国家の狂信者だったか。けれど彼は急にピタリと動きを止めて、それまでの狂気を失った声音でポツリと。
「“あのお方の……姫の寵愛を受けようとも……かの王は変わらなんだか”」
両肩を抱えていた腕をダラリとさせてそう呟く姿からは、彼の含む人間らしい揺らぎが覗く。だからだろう、アウローラの肩から力が抜けていくのは。そんな教え子の肩を優しく擦ってあやしていると、ふと視線を感じた。
上演中ではあるけれど気になったので、最小限の稼働でこっそり周囲を見回せば、四席挟んだ先に座るホーエンベルク様と目が合う。彼は私が気付くとは思っていなかったのか、舞台上の明かりでぼんやりと浮かび上がるその表情に微かな驚きが過った。
――瞬間、私の心臓は大袈裟なくらいに跳ねて。
お互いの視線が上下したりはしたものの、再び場面転換のために舞台が暗転するまで逸らされることはなかった。




