*16* 空耳でしょうか。
「この街に私達を迎えにいらして下さったのは、ガンガルとフェルディナンド様だけですか?」
「ひとまずって言うか、表向きはね。それと迎えに来るの、遅くなってごめん」
「いいえ、私が油断をして捕まったことがそもそもの原因ですもの。いまはこうして来て下さったことが嬉しいですわ。それより風邪をひくといけません。一旦火の近くへどうぞ」
歯の根が合わずに辛そうなフェルディナンド様を簡易ストーブの傍に座らせ、私も椅子をもう一脚用意して向かい合わせに座った。そうすると彼のガラスビーズに炎が反射して、悪戯好きな火の精霊みたいに見える。
チラチラと揺れる炎に無言で手を翳して温めることしばらく。ようやく指先に血が巡り出したところで先に口を開いたのは彼だった。
「あ、そうだ。あんまり寒くて一瞬忘れてたけど、アグネス嬢からベルタ先生にお土産を預かってきたんだよ」
「お土産?」
「うん。苔の臭いが移ってないといいんだけど。オレからのお土産はベルタ先生も気になってるだろう、先生と離れてからのアグネス嬢の行動ねー」
そう言うや懐に手を突っ込んだ彼が取り出したのは、仄かに甘い香りのする小さな紙袋。深夜に吸い込むには危険な香りだけど、ズイッと手渡されたので反射的に受け取れば、彼は視線で開けるように告げる。
それに頷き返して開けると中にはちょっぴり期待した予想通り、カシューナッツの乗った素朴なクッキーが入っていた。まずいと思って慌てて下腹部に力を入れたものの、僅かに間に合わず腹の虫が鳴く。
「お、良かった。その音を聞くに、アグネス嬢の読みは当たってたねー」
「育ち盛りでもないのにこんな時間に……お恥ずかしいです」
「いーじゃん別に。寒いと余計な体力使ってお腹減るでしょ。大した量でもないし、体温上げるのに糖分の補給は有効だって。温かい紅茶がないのは惜しいけどさ、それでも囓りながらオレの土産話を聞いてよ」
その視線がチラリとベッド脇のナイトテーブルにある水差しに向けられ、思わず苦笑してしまった。クッキーを食べたあとの喉を潤すのに、冷たい水でもないよりはマシだと思うことにしよう。
「何から何までお気遣い頂いてありがとうございます。もうアグネス様のことはずっと気がかりでしたので、是非聞かせて下さいませ」
「時間制限があるからなー……どれも面白くて全部聞かせてあげたいんだけど」
そんな軽口を叩きながら、ついに影すらも振り回した彼女の生態が明かされる時がきたことに震え、紙袋のクッキーをつまみ上げてハラハラ半分ワクワク半分で耳を傾けたけど――。
途中で何度か「そろそろ他の近況説明にする?」という言葉に、そっちも聞かなきゃならないのに「あともう少しだけ」と何度も返してしまった。およそ普通の子爵令嬢としては一生縁のない生活に馴染む彼女の話が面白すぎるのがさ……。
影は必要最低限の情報しかくれないから、アグネス様がどんなに面白いことをしていたとしても、それを教えてはくれなかったらしい。そりゃそうか。
特にお気に入りだった部分はスラムの子供だけのスリ集団の話で、影とスリの子供達との攻防戦にようやく気付いた彼女の取った行動が、スリの子供達の中でも小さな子を数人選出し、手持ちのお金を使って古着屋でのお買い物。
フェルディナンド様の話から、影達が私と彼女の滞在費についてのやり取りをしたその日だったことが分かった。自分のために使うのでないところが如何にも親友らしい。
彼女は身綺麗にした子供達を連れて、常連になっていたパン屋の前で所謂“サクラ”をすることをお店に持ちかけ、最初は自腹でパンを購入して客引きを試み、成果が出始めたところで、パン屋がその日に廃棄する商品を無償で手に入れる取引を取り付けたそうだ。
毎日違う子供達を向かわせることで疑われることも少なくなる。昨日からは年長者を送り込み、スーパーの試食みたいなことをさせているという。前世の記憶持ちでもないのに目の付け所が良い。
このやり方でちょっとだけお駄賃をもらえるようになった子供達は、スリよりも安全に食事にありつける道を見つけられたという。そんな話を熱心に聞くうちに、ふと気付けば書き物机の上の置時計が二時を指していた。
げっ歯類の如くサクサクやっていたクッキーもすでにない。香ばしいこの手土産もアグネス様がお世話になっているパン屋の商品らしいので、もしも穏便にこの件が片付いたら帰りに購入していこう。
「もうこんな時間じゃん。そろそろ本題に入った方が良いかも。ベルタ先生はどうせまだここに潜伏してるんでしょ? オレとガルも今夜からアグネス嬢と同じ宿屋に泊まるから、また寒さのマシな日にでも来るよー」
「ええ、そうですね。けれど……ふふ、あの手紙が届いても、私が攫われたとは思ってもらえませんでしたか?」
「だってさー、ベルタ先生は大人しく攫われる人じゃないじゃん。旅先で運命の出逢いがあったからって、全部捨てて駆け落ちするような情熱的な感じでも、無責任な感じでもないし」
「まぁ、それは残念ですわ。せっかくアグネス様と一生懸命考えましたのに」
笑い声を立てないように喉の奥で留めていたら、膝をつき合わせる格好で投げ出されたフェルディナンド様の長い脚が、不意に私の脚に絡められた。少し驚いたものの、目の前ではいつもと変わらない飄々とした笑顔を浮かべる。
「嘘だよ。本当は死ぬほど慌てた。あの手紙ね、うちの屋敷に届いたんだ。でもオレは何も思い付かなくて狼狽えるだけ狼狽えてさー。手紙を引っ付かんでまだ仕事で城にいたヴィーのところに行ったんだ。そしたら王子様達も一緒にいてね。二人もオレと同じで慌てるだろうと思ってたんだけど……違った」
そこで一度言葉が途切れて。絡められた脚をトントンと持ち上げたり下ろされたり。自分の意識と関係なく床に踵が当たる感覚にフェルディナンド様の表情を見つめれば、彼はパッと明るく笑って。
「ねーベルタ先生。オレさ、先生が好きだよ」
そんな風に脈絡もなく子供みたいな無邪気さでそう言った。