♗幕間♗ 一人旅の第一歩。
早朝の薄暗い部屋で火を極限まで絞ったランプを相棒に、宿屋の女将さんに借りていた置時計を見ていたけれど――……ついにそのときは来た。
きっかり六と十二を直線で指していた針のうち、長針の方が微かに傾いたところで二人分の荷物を入口に固めて書き物机に向かい、用意しておいた手紙と纏めておいた荷物を手にしてソッと部屋を出る。
『アグネス様、もしも私が六時になっても戻らなかったら、そのときはきっと駆け落ちしたんだと思って下さい。そして貴女は王都の私の家族にその旨をしたためた手紙を出すの。アグネス様の女優魂を信じていますわ』
そう言ってクスクスと笑う同性にしては低めの親友の声を思い出しながら、気分は端役をもらったばかりの劇団員というところかしら?
不思議なほど彼女の命の心配をしていないのは、きっと今回の旅の前に彼女の強さを知ったからね。あのときは心臓が破れるかと思うくらい心配したけれど、今日のことを思えば良かったんだわ。
そう言い聞かせながら一歩踏み出すごとに軋む階段を降りていくと、早朝から出立するお客のために玄関を開ける準備をしていた女将さんと目が合った。
「あらお客さんその荷物……お友達結局帰って来なかったんだねぇ」
しんみりと労りの籠る声音でそう言ってくれる彼女を見て申し訳ないと思う一方で、心臓は彼女から与えられた役目でドキドキと高鳴っている。女優はまだ難しいけど、端役を演じるくらいできるわアグネス!
「はい。ですがこうなるような気はしておりましたから。女将さんにはご迷惑をおかけしました」
気を抜くとすぐに間延びしてしまう語尾を頑張って封じ、しおらしく頭を下げて見せると、初老の女将さんは同情的に顔を曇らせた。
「あたしはそりゃ構わないけど、お客さんはこれからどうするんだい?」
「わたしは一度家に戻るつもりで……ああ、そうだわ。この辺りに荷物を送って下さる場所はありませんか? 一人だと彼女の分の荷物まで持って帰るのは、体力的にも気力的にも難しいので」
「ああ、それだったら――、」
親切な女将さんを騙すのは心苦しかったけれど、彼女に手伝ってもらって配達所まで荷物を運び込み、そこで宿泊代とは別に謝礼を支払って別れた。
『荷物と手紙は念のために別々の住所に届くようにしておいて下さい。もしも運び間違えがあったり、盗難にあっても分けておけばどちらかは届くでしょうから。それと配送に使うお金は私の荷物の中にあるお財布から出して、残りは迎えが来るまでのアグネス様の観光資金に使って下さい。その際のお土産話を楽しみにしておりますわね』
そんな助言に従ってベルタ様の分をミステル座の拠点である劇場名義で送る。
次に手紙の住所を書く段に至ったものの、考えてみたら我が家の住所しか知らないことに気付いて愕然としてしまった。
互いに馬車で行き来する間柄なのに、いざ手紙を出そうにも住所を知らないなんて……もしかして世間知らずなのかしら?
でも考えてみたら劇場は半券に住所が書かれているけれど、殿方と違って普通に住所を教え合ったりする場面なんてあまりないもの。知らなくて当然……よね? だけどそのくせ何故かフェルディナンド様の住所だけは憶えている自分が怖いわ。
「き、きっと皆そういうものよね~?」
声に出して誤魔化そうとしたものの、自分でも白々しいと思うせいかあまり満足のいく成果は得られず。早朝から忙しげに荷物を送ろうとカウンターにしがみつく人達の誰一人として、顔を上げる人はいなくて。
そそくさとトランク一つだけを手に配達所を出た途端に、クウッとお腹が鳴った。朝のまだ冷たい空気に混じって、周囲のお店が目覚め出す香りが流れてくる。
「ええと……ひとまずは腹ごしらえかしら~」
美味しそうなパンの香りがしてくる方角へと目を向ければ、絵本に出てきそうな緑色の鱗屋根をした小さなパン屋があった。
『女性の一人旅だと思われてはつけ狙ってくる不届き者もおりますので、食事や情報収集は可愛らしい店構えのところで行って下さい。店員が女性ならそこで宿や安全な観光場所を教えてくれると思いますから』
同じ子爵令嬢のはずなのに、妙に世間を知っている親友の助言がまたも脳内を掠めたので、フラフラとパンの香りに導かれるように歩き出す。美味しかったら帰りに一緒に寄れると良いわ。




