*5* 堪忍袋、弾ける。
面会の前に湯を使って着替えを済ませて欲しいとメイドに頼まれたがそれを断り、鼻血止めと簡単な手当てだけしてもらい、血塗れの夜着の上にガウンを引っかけた姿で侯爵の待つ応接室へと向かう。
理由は簡単。私がこんな風になるような目にあったと視認しやすいようにだ。下らない富と権力に尻尾を振るお前のせいで、教え子がこんな恐ろしい目にあったんだと見せつけるためにだ。
早い話が、私はブチ切れていた。そして案の定、応接室に現れたそんな私の姿を見て侯爵は眉を顰めた。
「これはまた随分と物々しい姿だ。妻を同席させないで良かった。身支度を整える時間を作ったはずですが……それにその髪色はどうされました?」
「ここまできてシラをお切りになられますか? この髪色はこういうことになるだろうと予期して染めたものです。まさかアウローラ様のご生家で襲われるとは思っておりませんでしたが」
「何のことか分かりませんな。あれはただの物盗りだ。それに貴方はもう我が屋敷で雇っている人間ではない。子爵家の貴方が侯爵家に楯突くおつもりか」
「私が楯突く? ご冗談を。楯突いたのは貴男の方です侯爵様」
話をしながら部屋にある窓に近付き、背後から感じる胡乱なものを見つめる視線を無視して窓を開け放つ。すると闇の中、庭園から秋バラの香りが夜風に乗って流れ込んでくる。
「私は陛下からあるものを直接お借りしました。コーゼル侯爵家の怠慢は彼等が目にしていることでしょう」
「エステルハージ嬢。如何に娘の家庭教師であった貴方でも、そこまでの無礼な物言いを許したつもりはない。いったい何の話を……、」
瞬間私の耳許を鋭い風切り音が抜け、背後で「ひっ!?」という侯爵の声と共に、床に落ちたカップが割れる音がした。
振り返ればそこには壁に突き立った棒苦無に似た投擲武器と、それを見て目を見開く残念なイケオジの姿。やっぱりというか、見られているのだ。さっきの乱闘も、この面会も。
【影】の仕事は諜報だけで、たとえ貸し出されていようが主は陛下だけ。彼等は私の“お願い”は聞いてくれても“命令”を聞いてくれるわけではないし、まして護衛をしてくれるわけでもない。
姿を見せてしまえば【影】ではなくなる。誰の目にも【見えない】という価値を、彼等は下げるべきではない。
「ご自分のいまの立場がお分かりになられましたか? 彼等は見ている。私のことも。貴男のことも」
こちらの言葉にハッとした表情を浮かべた侯爵は、憎々しげに私を睨みつけると、低く地を這うような声で「恩知らずの田舎者が」と言った。やかましいわ。恩とはあれか、歴代の家庭教師陣が匙を投げた末娘に駄目元でつけたことか。
そこから第一王子に私の意思を無視して売り付けて、出世ルートに乗せてやったとでも思ってるのか、この毒親め。
けれどそのとき応接室のドアがノックもなしに開かれ、どこかくたびれた夜着姿の教え子が立っていた。
「お父様、まだ先生に無礼な態度を取られるおつもりでしたら、この植物のことについてフランツ様とマキシム様にお話しして、陛下のお耳に入れて頂きます。それに……今夜わたくしと一緒にいらしたマリアンナ様は、わたくしの親友であるだけでなく、第一王子マキシム様の婚約者です」
所々埃で汚れていた理由は、教え子の手にしているあの麻薬植物に関する情報を探していてのことらしい。そしてその教え子の震える声が、怯えからではなく怒りからなのが伝わってくる。
「親を脅すつもりかアウローラ! 誰が今日まで無能なお前を末席に加えて育ててやっていたと思っているのだ!」
「脅しではありません! そうやって幼少から無能だ恥だと散々陰で話していた娘を、第二王子の婚約者にまで押し上げて下さった先生にこの仕打ち……! お父様は欲に目の眩んだ人でなしです!!」
「な――……!?」
まだ十二歳の娘にここまで言わせるだなんて、恥を知れ。恥を。しかし侯爵は長年お人形扱いだった末娘の豹変ぶりに動揺し、これまで私に向けていた尊大な態度を霧散させた。
「ち、違う、本当に今回の者達を手引きしたのはわたしではない!」
「それでは特定の“誰か”の手引きはしなかったけれど、誰でも侵入しやすいように護衛も見張りもつけていなかった、と。そういうことでよろしいですか?」
こちらの問いに即座に反応できずに黙り込む侯爵。語るに落ちるというやつだ。この男は、今夜ここにやって来るのが協力者……もしくは己を脅かす人物の息がかかった人間だと知っていた。
でなければ普通は、第二王子の婚約者に娘をまんまと据えた自分をやっかんだ第三者だと思う。現に私も一瞬その方向で考えた。だって娘を殺せば第二王子の婚約者は空白になるのだから。
「だとすれば迂闊ですね。侵入者が私だけを仕留めずに、アウローラ様や客人のお二人にまで手を下していれば……どうするおつもりだったのでしょう?」
まず間違いなくただの子爵家の娘を一人殺すよりも大変なことになるのは必定。もしもそうなれば、未来の王妃と王太子妃の二人を失った王家の怒りはどうなると思っていたのだろうか。考えなしすぎていっそ笑える。
「お伝えしたかったことは以上です。明日からの身の振り方もあるでしょうから、今夜はこの辺で。おやすみなさいませ、侯爵様」
一人がけのソファに身を沈めて虚ろな視線で肘置きを掴む侯爵を放置し、肩を震わせる教え子と一緒に応接室を出た。見張られていると分かった以上は夜の内に逃亡することもできないと分かっただろう。精々震えて朝を待て。
――で、だ。
応接室を出てみたものの、さっきの部屋に戻ったところで朝まで眠れるわけもないし、さてどうしたものかと思っていたら、ガウンの袖を教え子が掴んだ。震えているのが伝わってきたので、屈んで視線の高さを合わせて頭を撫でる。
「頑張られましたね、アウローラ様。とてもご立派でしたわ」
「先生、先生……お父様がごめんなさい……!」
「何故侯爵様のことでアウローラ様が謝られるのです?」
「だって、け、怪我を、させて……いっ、い、たい、でしょ、う、」
んー……大変だ。変に力んで泣くのを堪えるせいで、ちょっとラップ調に聞こえる。疲れているからか、笑いの沸点がただでさえ低くなってるのに。でもここで笑ってはいけない。
呼吸を抑えて神妙な表情をしつつ、込み上げる笑いの発作をどうにかいなそうとしていると、そこにさっき怯えさせてしまった下働きの男性に連れられたアグネス様達が合流。カオスの気配しかなかった。
「ベルタ様、その、ありがとう。ローラと先生とわたしを守ってくれて」
「い、いえ、守るなど……ただ必死だっただけです」
ほらー言えない! 偶然助けたような形になっただけで、むしろこっちが巻き込んだ側だなんて、言えないってば!! こんなにしおらしい姿のマリアンナ様を見たことがないから、正直な話、コーゼル侯爵と対面したときより居心地が悪い。
子羊の如く震えて「あ、新しいお部屋を、ごよ、ご用意しました」という男性も然り。本当に申し訳なかったと思う。メエメエ泣く教え子、同じような男性、しおらしい元気娘、戸惑う私。
「初めてベルタ様の雄姿を間近で見ることができて役得でしたわ~」
そんなカオスな中で、無邪気に微笑みながら拍手を送ってくれるアグネス様の様子にホッとしたのも束の間。
「……ということで、しっかり手当てをしましょうね~?」
ちなみにアグネス様が手ずから施してくれた手当ては、滅茶苦茶に染みて。ひっそりと一番ご立腹であられた親友に本気で泣かされたのだった。




