◑2◑ 飴と鞭。
二週間前にエステルハージ領にやって来た僕達と入れ代わるように、ホーエンベルク殿が王都の義姉上のところに戻っていくのを見送った。
彼がグレンジャー子爵領から助け出したリベルカの人達の保護を目的とした書類作成が、いまの僕の主な仕事。けれどそれとは別にもう一つ義父上に課せられた大切な試練があった。
脚本や小説には、物語の進行上“お約束”というものが幾つか組み込まれていて。たぶん僕にはその中でも一番必要な“お約束”が生まれてこのかた欠如している。主に長年太るに任せてほとんど向き合ってこなかったことで、普通の貴族男性なら嗜みとしてやってきていることだ。
「――――……ヨ……フ、馬の上下する振動を自分で殺そうとしちゃ駄目よ、馬上で無理に踏ん張ると酷い筋肉痛になるわ! 馬の上下に合わせて腰骨を立てるみたいに乗るの!」
時々突き上げるように大きく揺れる馬の背にしがみつくだけで必死だった僕の耳に、どこからか凛としたアンナの声が届く。半ば鬣に埋めかけていた顔を恐々上げれば、柵の向こう側にツバの広い麦わら帽子をかぶったアンナの姿と、その後ろに控えるガンガルの姿が見えた。一瞬。
二人の方に向かって頷き返すところが見えたかどうか……。けれどひとまず彼女の助言に従って腰骨を立ててみた。すると馬はやや落ち着いた様子になって、僕の特訓に付き合ってくれている厩舎の人も「お、良い感じですよ。そのまま視線を前に。遠くを見る感覚で乗って下さい」と指示をくれる。
言われた通りにしたら、さっきまで落ちないように鐙を気にしてばかりいたのに、背筋を伸ばしたことで鞍の据わりがいまの方が良いことに気付く。
嬉しくなってアンナ達のいた方に視線を戻せば、彼女が麦わら帽子を脱いで大きく一度だけこちらに向かって振っていた。たぶん屋敷に戻って小説の続きを書いてくれるのだろう。
――が、僕の集中力が少し逸れた隙を逃さず頭を振る賢い馬の首にしがみつく。厩舎の人も「馬は上に乗ってる人間が自分に興味を失くすのがわかるんですよ。だからよそ見をしてたら拗ねるんです」と教えてくれた。
だからアンナ達が帰る姿を見送ることはせず、馬の機嫌を損ねないよう重心に注意しているうちに、ここ二週間で一番マシな乗り方ができるようになった。
成程、乗馬のコツは感覚と慣れ。あとは馬の“乗せてやっても良い荷物”でいることらしい。その後厩舎の人が持っている紐の長さを徐々に伸ばしてくれて、二時間もする頃には僕が馬に乗って描ける円の直径もかなり広くなっていた。
けれど結局三時間に差し掛かるより前に馬にとってのお荷物となった僕は、厩舎の人の手を借りて牧草の上へと降り立つ羽目に。
僕を降ろした馬は清々したとばかりに鼻を鳴らしたものの、すぐに鼻面を寄せて“次はもっと上手くやれよ”とでも言うように優しく前髪を食んで、苦笑する厩舎の人に連れられて帰っていった。
馬上だとそれなりに感じた風も、地面に降りるとそうでもなくて。まだひんやりとした木陰を探してその下に座って目蓋を閉ざしていると、不意に草を踏む人の気配がした。
領地の人に情けない姿を見せるわけにはいかないから慌てて飛び起きれば、そこに立っていたのは舞台俳優のように整った顔立ちをした義父上だった。
「だいぶ上手く馬に乗れるようになったそうだな、ヨーゼフ」
「あ、ありがとうございます、ち、義父上」
「おっと、そのままで構わないぞ。乗馬に慣れないうちは脚が震えてろくに立てないだろう?」
「は、はい……すみません」
「なに、謝ることはないさ。それだけ熱心に打ち込んでいたという証だ。これなら存外早くアンナと遠乗りができそうだな」
父と同年代だとは思えないスラリとした無駄のない体躯。未だに社交界で義父上の話を聞きたがる女性が多いのも頷ける。だけど――。
「こ、この特訓は、と、遠乗りのため、だけ、ですか……?」
「無論そんな温い理由だけではないが、特訓はご褒美の方をちらつかせた方が上達が早いだろう?」
器用に片方の眉を上げてそう笑う義父上の本当の顔の方が、彼を彼足らしめる。冷静で獰猛な義父上は、アンナや義姉上のために普通を装う。けれど時折こうして漏れ出す本性が、僕の脚本家としての想像力を掻き立てた。
同時に大切なものを守るために必要なことを全て知り、行動に移すことができる強さに憧れる。
「ぼ、僕、あの……あ、義姉上に、手紙を届けられるよう、が、頑張……んぐっ!」
言い終えるより早く、義父上が何かを口に突っ込んできた。何か甘い。甘くて平べったいものが舌を押さえている。視線を下げて手許を見れば、正体は棒のついたキャンディーだった。
わけが分からなくて目を白黒させていると、義父上は僕の目を見つめて面白がる風に笑っている。
「そのままゆっくり話してみなさい」
「は、い。わ、か、り、ま、し、た」
「うん。やはりそうか」
「な、に、が、で、す、か?」
「ここには誰も君を急かす人間も、笑うような愚か者もいない。君の中で言葉が形になるまで待つ。君は何ができる、何がしたい? そういうことをこれからゆっくり時間をかけて話そう」
義父上はそう言うと棒キャンディーの持ち手から手を離し、懐から煙草を取り出して火をつけた。一息吸い込まれた煙草の先が赤く燃えて、灰と紫煙を生み出す。彼が宙に吐き出すそれを眺めながら、頭の中でいまかけられた言葉を反芻する。
「で、は、どうして、馬に乗る、特訓、を?」
「君が馬に乗れれば良いと思う理由は単純に、何かあればアンナと逃げられるようにというだけの理由だ。君が逃げ遅れて傷を負うか死にでもしたらアンナは哀しむ。勿論その姿を見るわたしとベルタもだが」
気怠げな声音に籠められる温度に思わず息を詰めた僕の頭を、風が掠めるように義父上の掌が撫でて。ゆっくりと舌の上で溶けるキャンディーの、優しい甘さが広がったけれど――。
「とりあえず娘達のために悪巧みに使える男手は多いに越したことはないからな。期待しているぞ、婿殿」
ニヤリと笑うその表情は、どことなく義姉上に似ていておかしかった。




