*25* 家庭教師なんだってば。
馬車の中で弱音を吐いた翌日、私は早速次の行動に出ることにした。相手の出方を見るのも大切だけれど、ときにそれは悪手になる。馬車の中での弱音がそれだ。ウジウジ悩むと次に動き出すときに一拍遅れる。
前日の約束通り遊戯盤の用意をして待ってくれていた王子達に、ランベルク公爵が他国から元々この国にいた公爵家の人間を使い、陛下が倒れている間に彼等を政治介入の駒として手引きするかもしれないことを話した。
そこまでは良い。そこまでは別に良いんだけど――……。
「こちらも忙しいので、あまり予告もなくこういうことをされると一日の予定が狂うのですが」
そのさらに翌日、私はまたも拉致られていた。例によって例の如く、登城しようと馬車を降りた直後に。家庭教師にも感傷に浸る時間と人権くらいあるべきだ。
「昨日王子方からお倒れになられたとお聞きしたのですけれど……恐れながら存外お元気なのでしょうか、陛下」
思わず零れそうになる溜息を喉の奥で殺しながら、目の前でソファーをまるで玉座のように座りこなす相手にそう尋ねると、彼は気怠そうに目を細めて笑う。
「――ほう、そなたにはそう見えるか?」
勿論結論から言えば見えない。彼は今日も今日とてかなり顔色が悪かった。疑うべくもない病人であり、それこそ前世の最後にこんな顔を鏡で見た気がする。
「いいえ。言葉が過ぎました。どちらかと申しますと、安静にしておいた方がよろしいお顔をなさっております」
「今更、多少寝床で大人しくした程度でどうにもなるまい」
「そう仰らずにもう少し政務を臣下任せにして、王子様方を信用なされては?」
「そのようなことに割く時間はない」
「作れますよ、今なら。砂時計の砂はまだ落ちきっておりません」
トン、と心臓の上を叩いて見せれば、陛下はその双眸を眇めた。小娘からの小言が煩わしいというよりも、言葉の真意をはかりかねているといった風だ。実際に本当のことだから真意も何も言葉のままなんだけどね。
「子爵の娘程度が、王に対して随分と不遜な物言いをする」
「こう見えて一度砂時計が割れて死んでおりますので」
「……それは誠か?」
「信じるも信じないも陛下のご随意に」
何だろうか。おかしな話だけれど、最初の呼び出しのときよりも幾分か気易い。王子達の話でこの人も人の親なのだと感じたからだろうか。ちょっとした軽口を叩ける程度には人間に見えるようになった。
いまのところ不敬な発言を連発しているのに近衛が入室してこない辺り、陛下は本気で気分を害してはいないのだろう。
「王子達は随分とそなたを気に入っている様子だが、その恐れを知らぬ二枚舌のせいではあるまいな」
これには答えずニッコリと微笑みを返すに留める。この人はきっと否定の言葉を信じないタイプだ。だったらこちらの働きを見て勝手に判断してくれ。
「答えぬか……賢しいな。まぁいい。そなたはランベルク公がこの国から追放され、現在は他国で重用されている人間を使い、その者達を足がかりに政治介入してくると言ったそうだな?」
「はい。以前から公爵家の数が少ないことが気になっておりましたので、その質問をさせて頂いたときに可能性として挙げました」
これは原作のゲームで見たことはないからただの仮説だけれど、もしも亡命した先の国で重用されたら、絶対に追い出した国の王家より重用してくれた国の王家に忠誠を尽くす。
実際に史実だとフランスの貴族に生まれながら、後にオーストリアに尽くしたオイゲン・フォン・ザヴォイエンという人がいるが、彼の生い立ちはまさにそんな感じだ。最終的に悲劇の王子と呼ばれた黒太子エドワードに忠誠を誓い、彼の片腕となってフランスを猛烈に攻めた。
他国の歴史の授業としてそんな例を挙げて説明すれば、二人の王子達はそれは真剣に耳を傾けてくれた。おまけに地図で侯爵家が亡命した先の国まで教えてくれて。他国の領地に分断されて飛地になっているそこは、地図上でこの国に隣接した形になっていた。
前世の世界地図上の不自然な飛び地を紐解いていくと割と面白い。世界史が苦手な子にそう教えたら、その余白にロマンを感じて創作活動に勤しむくらい歴史好きになった。授業の休憩時間に作品を読ませてくれたあの子は、いまも元気でいるだろうか。
「そのランベルク公が先日良くお顔立ちの似た方を連れておられたのですが、陛下は何かご存じでしょうか?」
「自らは答えを寄越さぬのに、私がそなたの問いに答える必要があるとでも?」
「あら……左様でございますね。無作法な真似を致しました。田舎娘の戯言とお許し下さいませ」
いまので通じたということは、存在は知っているということだ。だったらこの人が油断をして足許を疎かにするようなことはないだろう。たぶんミドルだってイザークのことは見せ駒にするつもりで連れて来たに違いない。
もしも“何か”が起こった場合にいつもと違う異物を混ぜておけば、全ての罪をそちらに被せられるから。貴族とはそういうものである。
「白々しいが……よかろう。そなたを雇用してからというもの、あの水と油のようだった王子達が一緒に行動している。とくに第一王子に至っては授業中に暴れることもなくなったそうだな。第二王子との差は埋まりそうか?」
「差など……元より授業の方法が間違っていただけで、マキシム王子の勉学に対する姿勢はフランツ王子に劣ることなどありません」
「まだるっこしいのは好まぬ。そなたの目から見て、使い物になるか」
その尋ね方にカチンときた。わざと煽っているのだとは分かっていても、未来は常に子供のものであるべきで、親にそれを弄る権利はないというのが私の教育者としての考えだ。
――ただ今回ばかりは流石に王の跡取りは王になる道しかないのだけれど。
「陛下の代わりに玉座に座らせるおつもりならば、もうあと二年……いえ、三年は仕上げに欲しいところです。そのためにも王子の後ろ楯であられる陛下には、御身を大切にして頂かなければなりませんね」
「まだ存命の王を前に不敬なことだ」
「申し訳ございません。私もまだるっこしい表現は好みませんので」
家庭教師を雇うお金は親が出すものだけれど、家庭教師であるのだから教え子の味方でなければ意味がない。受験に挑むのも頑張るのも教え子だ。期待を押し付けるだけの親は足枷にしかならない。
静かな視線。だけど穏やかではない。けれど苛烈というのでもない。覗かれている。深い、深い、場所まで。
「ベルタ・エステルハージ。そなたに私の【影】を扱う権限を預ける」
「はい?」
「此度のグレンジャー子爵家の関わった件は、ホーエンベルクから報告が上がってきている。あの領地の私兵だけでは、今回の件の膿を出すには足りん。しかし表立ってホーエンベルクに指揮権を渡しては角が立つ」
ホーエンベルク様の名が出たことにも動揺したものの、それ以上に動揺する単語を出されては混乱してしまう。何故そんな御大層なものを私に振るんだよ!?
「で、ですが陛下……私は一介の家庭教師に過ぎませんが?」
「ここまで深く潜ってきておいて、その言い分が通用するとでも思うのか」
陛下はそう言うと、初めてニイッと唇の端を持ち上げて、常なら能面のようなその顔に表情らしきものを浮かべた。
王子達と同じ色なのに、底のない湖のような双眸がこちらを見据える。こんな魚も棲めなさそうな色の湖に、こっちだって潜りたくて潜ったわけじゃない。
「私を後ろ楯にするのだろう?」
言い返す言葉を失って口をパクパクさせる私を見て、不健康そうな陛下はどこか面白そうにそう言った。