♗幕間♗名誉と思えば何てこと。
――バシッ!
鋭い破裂音に似た音を立てて、砂埃を巻き上げた五国戦記の絵が描かれた丸い厚紙が、同じように絵を描かれた厚紙に煽られてひっくり返る。これでまた手札を一枚失いましたわ。でもそれなら次こそ取り返して見せましょう。
フワリと靡く邪魔な袖を巻き付けた右腕を振りかぶって、手にしたメンコを今度こそ思い切り地面に――!
……ペトリ。
渾身の力で叩きつけたはずのメンコは、指先から離れた瞬間風圧の影響をもろに受けて浮いた……のかしら? もっとギリギリまで手から離さない方が……いえ、でもそれだとまた反則をしたことになってしまうわねぇ。
――と、そこまで脳内反省会をしたところで、眼前に立っていたマキシム王子が呆れた様子で口を開いた。
「スペンサー嬢、それだとただの落下だ。それに何度も言っているが、少しで良いから角度をつけろ。いまの投げ方だと風圧で浮いて地面まで威力が届かない」
「うふふ、頭では分かっているのですけれど、実践となると難しいですわね~。お相手を始めて一ヶ月以上経つのに、未だに一枚も取り戻せませんもの」
口許に手を当ててそう笑えば、若き王子様は眉間に皺を寄せて「覇気がないぞ。そんなことでは社交界で侮られる」と苦言を呈されてしまった。
最初は王子様の家庭教師、ましてや一時的とはいえベルタ様の後任になることに緊張していたのだけれど……こうしていると杞憂であったのだと分かる。手がつけられない癇癪持ちの少年は、彼女の教育でここまで変わった。同業の憧れの人ながらその手腕に軽く嫉妬してしまうわ。
「ではもう一戦といきましょうか~?」
「ん……いや、もう小休止は終わりらしい。砂時計の砂が落ちきってる」
「あらまぁ、本当ですわ~。ついムキになってしまって砂時計の方を見ておりませんでした」
「ムキになったと言うのなら少しくらい負けて悔しい表情くらいしたらどうだ」
「うーん、そうですわねぇ。でしたらあとでお茶の時間に盤上にて雪辱を晴らさせて頂きますわ~」
「おい、そこは少しくらい遠慮しろ。あの面子だと止める奴がいないから、わたしの一人負けになる」
一瞬心底嫌そうな顔をしたマキシム様は、鍛練場の床に散らばったメンコを拾い上げ、一枚一枚についた砂埃を払って大切そうに袋に納めていく。その行動にならいつつ、胸の奥が軋む気配に気付かないふりをした。
自覚した瞬間に封じた初恋。このままもう少し冷却期間を置けば、きっとまだただの勘違いにできる。フェルディナンド様ともベルタ様ともきちんと友人に戻れる。
けれど……問題はそれだけではないのよねぇ。ほうっと溜息を漏らせば、それを聞きつけたマキシム様がチラリとこちらを見て、すぐにまた視線をメンコに戻しつつ口を開く。
「スペンサー嬢。ベルタが戻るまでは貴方の身柄はわたしが預かっている。ランベルク公が貴方の社交シーズンの邪魔をしているようだが、あれは婚約者をあてがおうとしてくる公爵から逃げるわたしへの当てつけであって、貴方に非があるわけではない。だから……落ち込むな」
急な会話の展開に思わず微笑ましさを感じて少し笑ってしまったけれど、それを聞きつけた意外と照れ屋な王子様は「チッ、何でもない」と頬を染めた。舌打ちはどうかと思うものの、そんな不器用な姿は年相応で可愛らしい。
現在は演劇が大好きな隣国の末姫様の次にマリアンナ様の名前が挙がっている。だから初恋が駄目でも、婚約者探しが難航しても、どうってことはないわ。
「ふふふふ、マキシム様。別によろしいのですよ~。公爵様が手を回さずとも、元々わたしは結婚ができないものだと思っておりましたから。むしろマキシム様の候補者の中に教え子がいるだなんて、こんな名誉なことはありませんわ~」
隣国の末姫様と自分の大切な教え子の名前が並ぶ。それがどれだけ誇らしいことか分かってくれるのは、王都から離れた親友だけだろう。早くフェルディナンド様の求婚を受けた彼女に褒めてもらいたい。
傷を舐め合う仲間にはホーエンベルク様をあてにさせてもらえば良いものね?
そう思っていた僅か数時間後。
雪辱を晴らせると意気込んでいたお茶の時間に、まさかその親友が帰ってきているとホーエンベルク様の口から聞かされるとは思ってもいなかったわ。




