*3* 積み荷と子犬と私。
お酒の失敗の仕方は幾つかあるけれど、もっとも多い症状は、翌日に前日の記憶が失われていることにあると思う。
応接室に置いてある椅子の肘掛けを割った翌日、土気色の顔をして朝食の席に現れた父は、例に漏れず昨夜の記憶をすっかり失っていた。適齢期を少し過ぎた娘の心を波立たせる爆弾を投下していったというのに暢気なものだ。しかしその点で言えば私のお酒の失敗は父親似だということになる。
家令には『旦那様……その酒気が分からないほど飲まれるとは、何たることですか』と言われ、メイド長には『あんな場所で眠られるから風邪をひくのです。ご自分の年齢をお考え下さいませ』と叱られて、ぐったりとテーブルに突っ伏していた父の姿を教え子とフェルディナンド様に見られた。最悪である。
だが思わず父がお酒に逃げたくなるほど心配をかけたのは、他でもない私だ。そのことについては申し訳ないと思うと同時に、これで昨夜の質問をすぐに蒸し返されることはないという安堵もチラリと過った。最低である。
しかし私の内心のジレンマを知ってか知らずか教え子は心得たもので、何があったのかと訊ねるでも戸惑うでもなく、父の醜態が見えない風を装って朝食をとってくれた。賢さと気遣いが天元突破している。
フェルディナンド様は一瞬目を丸くしたものの、苦笑を浮かべて『二日酔いはヨーグルトにハチミツ入れて食べると、多少マシになるよ』と教えてくれた。普段愉快な行動ばかりする人の良識的な反応ほど辛いものはない。
――そんな恥ずかしいことがあってから、一週間。
「お嬢、こっちの荷物と、そっち荷物は平気。この荷物はー……ちょっとだけ臭い。でも、これから直接するのと違う」
「だとすると移り香ね。他の荷物も嗅いでみてくれる?」
「ん、分かった」
急拵えの関所を通過する荷物は、その日のうちに店頭に並べられてしまわないよう、領内の幾つかの場所に分けた集配用倉庫に回される。大体が商店の建ち並ぶ一角とワンセットなので巡りやすい。
半数が商人が自分の店の名を使って個人店の店主と直接商われるものだが、半数は下請けというか……合同で名前を使い、主人や責任者の名前が一つではない雑多な商品だ。前者は不正をしても捕まえやすいけど、後者は面倒な手続きが必要になってくる。目録にない物もザラ。
それに教会での演劇が有名になってから、そちらを観に来る人間をあてに商売をしようという移住者が増えているので、商店の数や扱う品も多種多様なのだ。
「王様、今日はこっちに来ない?」
「ええ。お父様は今日は一日商工会の方で話を聞くのに手一杯だから、倉庫の方は私とガンガルだけよ。頼りにしてるわね」
「任せて、お嬢!!」
こちらの答えを聞くや、フンスと鼻息も荒く片っ端から鼻を近付けて検査を始めるガンガルは可愛く、頼もしい。異性とはいえこのくらい子供らしいと不思議と安らげる。
父が一日使い物にならなかった日を除き、あのあとも二度ほど湖畔のスケッチについていったものの、フェルディナンド様と行動するのが少々気まずかった。だがそれは勿論彼のせいではない。他でもない父のせいである。
お酒を飲んでいるときの発言というのは、その人の深層心理を現すという。
それならば、私のフェルディナンド様への気安すぎる対応が父にそう見えたと言うことで、私の無自覚な馴れ馴れしさが人の目にはそう映るということに恐怖を感じたのだ。
勝手に父が名前を拝借して話題にあげただけで、本人の預かり知らないところでの恋愛話。まぎれもない名誉毀損案件。
二択のもう一方にあげられたホーエンベルク様にも心の中で謝罪したくらいだ。元より結婚の目がない私と違い、二人は当主と次期当主。妙な噂が立って彼等に婚約の話が舞い込まなくなったりしたら、申し訳なさすぎて死ねるもの。
でも……あのときの父の言葉に一瞬だけ、何か呆れとは違うものが胸を掠めて動揺した。それが何であるのかはまだ知らなくていい。第一いまはそれどころではないのだから。
それから夕暮れどきになるまでガンガルの指差す荷物を一つ一つ開け、中身を確認する作業をこなしてから屋敷へと引き返した。屋敷についてガンガルに馬を預け玄関ホールに一歩踏み込むと、ちょうどこちらもいま戻ったばかりといった風な絵師が二人並んでいるところに遭遇する。
「お帰りなさい先生!!」
「お帰りー、ベルタ先生」
「ただいま戻りました。二人もお帰りなさい。新作の方は順調ですか?」
「まぁまぁってとこ。明日は残りの細かい着色してくるよー。これが済めばもうほぼ仕上がるかな」
フェルディナンド様と会話を交わす間に腰にしがみつく教え子の頭を撫で、見やすいように差し出された画板を覗き込む。
彼がパラパラ漫画のようにめくっていってくれる景色はどれも、エステルハージ領の魅力を再発見させてくれるものばかりだ。
「ベルタ先生が一人ってことは、ガルは厩?」
「ええ、鞍と鐙の片付けをしてくれています。水やりを済ませたらじきに戻ってくると思いますわ」
「そっかそっか、そんな良い子にはちょっと良いものでもあげてこようかなー」
「あら、何かしら?」
「ジャムですわ。教会の絵を描いていたら風に甘い香りが含まれていたので、全体図をスケッチしていたのですけれど、ちょっとだけ近付いたんです。そうしたら教会の子達にもらいましたの!」
ふとそれまで猫の子のように撫でられていた教え子が、急に背伸びをして興奮気味にそう教えてくれる。同じ年頃の子供達が多かったことに何かしら刺激をうけたのだろう。
赤いイチゴのジャムが詰まった小瓶を掲げるように見せてくれる教え子の頬は、生き生きと色付いて微笑ましい。
「教会のジャム……そういえばそろそろ公演の時期ですから、そのときに売りに出すバザー用のものですね」
「公演、ですか?」
「あー、ヴィーが言ってたやつだ! じゃあここにいる間に将来王都の舞台に立つ若手が観れるってことか。楽しみだなー」
「ふふ、言われてみればそうですね。是非ご覧になってみて下さい」
「うん、そうするよー。取り敢えずガルにご褒美として渡してくるけど、ベルタ先生のも別でもらったから、そっちはあの紅茶に淹れられないようにパンにつけて食べてね」
朗らかに笑ってガラスビーズを弄りながら厩に向かうフェルディナンド様を見送り、乗馬ブーツをはきかえながら教え子の一日の報告を受けていたそのとき、裏の厩の方角から「お嬢!!」と私を呼ぶガンガルの声がした。




