*2* 青空授業と紅茶と毛布。
厩から戻って教え子と一緒に軽く湯浴みをし、父とフェルディナンド様の待つ食堂で朝食をとった。男性陣は芸術の話題をのんびりと語り合い、教え子はここぞとばかりに私に甘えながら食事を楽しむ。
まさかしっかりしてきた教え子に“あーん”を要求されるとは……いや、アンナもまだするからこれが普通なのかもしれないのか? 前世といい今世といい、私の教育方針は変なところで穴がある気がするなぁ……。
食後のガンガル印の紅茶を父と私が飲む間、フェルディナンド様は頬をひきつらせ、教え子は興味と恐怖の入り交じった視線を向ける。
二人とも本日で四日目になるというのに、まだガンガルの独特な紅茶の淹れ方に慣れないらしい。確かに紅茶の準備中にちょこちょこジャムの瓶を取りに自室に戻るガンガルの癖は、紅茶をサーブする人間としては完璧にアウトだけど。
各々のタイミングで席を立てば良いのに、この四日間何となく一緒に席を立ってしまう。その流れで玄関ホールまで辿り着くのが一連の一日の始まりだ。
すでにホールに用意されていた装備を手にしていく父とガンガルと教え子。父は私と同じ乗馬スタイルで、ガンガルは従僕スタイル。
教え子には汚れてもいいようにアンナの小さい頃の服を着せ、私が幼い頃に使っていた画板と画材を持たせている。
フェルディナンド様は旅慣れしているらしく、コンパクトなトランク型の絵画道具一式だけ。ちょっとくたびれているのが格好良く見える。
「じゃあ今日もお姫様つれてスケッチに行って来るねー。夕方にはお屋敷に連れて戻っておくから」
湖畔に行くと告げたところブーツに履き直すよう家令に言われ、素直にそうする教え子の姿を微笑ましく眺めていた私に、にこやかにフェルディナンド様がそう言う。まだブーツに悪戦苦闘している教え子を見やり、ちょっと彼を手招いた。
「フェルディナンド様、そのことなのですが」
「ん? なにー?」
「アウローラ様のお相手をして下さって、ありがとうございます。本来なら私がお相手をするべきですのに」
「ああ、何だそんなことか。いーよいーよ別に、オレが好きでやってるんだし。それに前に言ったじゃん。いつかエステルハージ領に絵を描きに来たいって。まだ今日で四日目だけどさ、充実してるよ」
こちらの心苦しさをカラリと笑って受け流してくれる彼にホッとしていると、背後からポンと肩を叩かれて。振り向いた先にはにこやかな表情の父の姿があった。
「あ、もう出発するのですね。ではフェルディナンド様、申し訳ありませんがアウローラ様を――、」
“お願いします”と続けようとした私の唇の前に、父の人差し指が立てられる。何の真似か分からず瞬きをして父を見上げれば、彼は悪戯っぽくこちらに微笑みかけて口を開いた。
「ベルタ、今日はわたしとガンガルだけで行って来るから、お前もたまには息抜きしておいで。彼等は湖のスケッチに行くのだろう? あそこまで荷物を持たなければ行って帰ることは容易いだろうが、画材を持って出かけるのは骨だ。馬で一緒に行ってみてはどうかな?」
その言葉にこちらが返事をするより早く、ブーツを履き終えて聞き耳を立てていたしい教え子の挙手姿で、私の本日の予定は書き換えられた。
――三十分後。
私は湖畔にある樹の枝に乗ってきた馬を二頭繋ぎつつ、フェルディナンド様と教え子がはしゃぎながら場所取りをする姿を見つめていた。二人ともまるでボールを与えられた子犬のようだ。初めてアンナを乗せて来たときの姿を思い出す。
私も急に空いた時間をのんびり過ごすべく、かなり久々にやって来た湖畔をぐるりと見回した。ここは少しも変わらない。そう大きくはない湖ながら、景観だけで言えば領内でも屈指だという自負がある。
何より父がそう自慢していた――と。私が私になる前、ゲームの世界線に生きた私の日記にあった。ゲームの中でもそれらしきログを読んだ記憶がある。今となってはその記憶も私の一部だ。
母が私を産む前は時々馬に乗せて訪れたことがあって、湖畔を囲む木々の多くはシロップの取れる楓で、紅葉する時季は湖面に映り込む赤や黄で地面との区別がつかなくなるのだと。
そう言って笑っていたと日記にあった父は、母が亡くなってからというものここには近寄らない。それは記憶の中の幸せな風景に、母がいない現実が重なることが許せないからかもしれなかった。
恋とか愛とかは、何だかとても難しい。小説やドラマやゲームだとシナリオや正解があって分かりやすいのになー……と詮ないことを考えていたら、ぼんやりと眺めていた視線の先で、ほとんど変わらない場所に陣取った師弟が振り向いた。
「先生もこちらにいらして下さい。先生の好きな角度が知りたいですわ」
「そーそー、ベルタ先生も久々に授業の監督してよー」
そう声をかけられることが嬉しいと感じるほどには、この顔ぶれでの授業が久しぶりなのだと思い出して二人の元へと歩を進める。空も風もここにあるものは今の自分が置かれた立場の危うさを忘れかけさせてしまう。
今度こそ討ち取られる側にならないためにも、平和ボケしない間に一度王都へ行かなければ。
***
その日の夜フェルディナンド様を交えた夕食を終えて解散したあと、一日はしゃいで疲れたのか、応接室で紅茶を飲んでいた最中に船をこぎ始めた教え子を部屋に送ったのち、再び一人で応接室に戻ると父がいた。
しかも何やら気難しげに脚を組んでジッと目を瞑っている。やっぱり私が抜けたことで昼間の仕事量が増えたから疲れが出たのだろう。それに少し距離があるのに、父から結構強めにお酒の臭いがしてくる。
そこで「お父様、新しく紅茶を淹れようと思うのですが、酔い醒ましに如何です?」と声をかけると、父は目蓋を持ち上げて「それは嬉しいな。是非お願いしようか」と応じてくれる。
けれど頷き返して保温ポットに残った湯の温度を確かめていたそのとき、ふと父が「なぁ、ベルタ」と口を開いたので、視線をそちらに向けて言葉の続きを待ったのだけれど――。
「父様はお前はこのまま王都に戻って中央のいざこざに巻き込まれるより、今日のように領地で平和に笑って暮らして欲しいと思っている。だから腹を割って話そう。フェルディナンド殿とホーエンベルク殿、どちらがお前の想い人なんだ?」
「あのー、お父様? 色々と気になることは多いのですが、ひとまず何故そこにお二方のお名前が出るのです?」
「成程。どちらが想い人ということへの突っ込みではないということは、確率は二分の一か」
「そこからお訊ねして良いのであれば、勿論そこから突っ込みます」
「ちなみに父様としては前半戦だとホーエンベルク殿だったが、後半戦の巻き返しではフェルディナンド殿が優勢だと思っている」
お父様、突っ込んでも無駄じゃないですか。あと目が据わってるのが地味に怖い。椅子の肘掛けがヤバイ音を立てて軋んでるんですけど……。
「ちょっと仰っていることの意味をはかりかねます。というよりもお父様、お二方の意思を無視するような発言はどうかと思いますが」
「うちの娘に文句をつける男は皆○○ば良い。むしろお前を慕っての距離感でなければ、あの二人も○す」
あ……肘掛けからしてはいけない音が上がった。くっきりと指の形がついた肘掛けを見て、明日ここを掃除するメイドの悲鳴をあげる未来が見える。
ブツブツと物騒な呪詛を吐き続ける酔っ払いに呆れつつも紅茶を淹れ、それを二口ほど飲んだ父がピタリと口を閉ざしたのを見計らってカップを取り上げ、代わりに薄手の毛布を部屋から取ってきて肩にかけたのだった。




