◑2◑ 勧誘。
表通りでエステルハージ家の馬車を降りてから、人目を避けるようにやや薄暗い路地裏に建ち並んだ、グレーやブラウンを基調とした古いアパルトメント群に向かって歩を進める。
似たような建物の中から目的地である番地を目指して歩くものの、ところどころ色の違う煉瓦で補修されたその佇まいは、小説や演劇だと曲者扱いされる登場人物が住んでいる設定の場所を、そのままを切り取ったようだ。
本来一人では足を向けることのない地区だけど、隣を歩く彼女と僕達の前を歩く彼の三人なのでさほど緊張感はない。けれど今日ここにやって来たのは、何も舞台の脚本に臨場感を持たせようということではなくて――。
「ふぅん? いかにも普通なアパルトメントだけど、大劇団の人気脚本家が本当にこんな場所に住んでるのかしら?」
「いる。お嬢が、後から教えてくれた」
「あ、義姉上が、そう言っていらしたのなら、住んでいるのだと思うよ。だけど、本当に、こんな勝手なことをしても……大丈夫、かな?」
「ここまで来ておいて男らしくないわ。ヴァルトブルク様も今回のわたしの発案に賛同してくれたじゃない。ねぇ、ガンガルもそうでしょう? お姉さまの悪評を振り撒く男を野放しになんてできないわよね?」
アンナ嬢がそうガンガルの背中に声をかけると、こちらを一度振り向いた彼は眉間に皺を寄せて僕と彼女を交互に見た。
やや浅黒い肌を縁取る銀灰の髪に映えるその青い双眸が、心配そうに揺れる。一瞬“異国情緒のある主人公としてどこかで使えそうだな”なんて思ってしまった。
「んー……お嬢を悪く言う奴、許せないのは、そう。でも本当は、妹様がここに来るの反対。だけど、駄目って言ったら一人で来る。それはもっと良くない」
「ちょっとガンガル、話を合わせなさいよ。昨日は紅茶の練習に付き合ったら、あいつの元に連れて行ってくれるって約束したじゃない」
「え、待ってアンナ嬢。それは……聞いてないよ。彼が反対する場所なら、僕と彼だけで行くから、君は先に馬車に戻った方が……」
「嫌よ。絶対にわたしも行くわ。あの脚本家には言ってやりたいことがあるもの」
そう言うやツンとそっぽを向いてしまった彼女と、ほんの少し「帰ろう」「嫌よ」という不毛なやり取りをしていたら、それを見かねた彼に「あー……うん。オレがいれば、大丈夫。二人とも守るから、行こう?」と仲裁されてしまった。
ここに連れてきてもらう交換条件に、まさか紅茶の練習台になっただなんて。しかもそれが取引材料として成立するとなると……いったいどんな味の紅茶なんだろうかと思わなくもない。
けれど再び歩き始めようとしていたところで、いきなりガンガルに引っ張られて近くにあった物陰に押し込まれた。その理由は――。
「登城する前に表通りに停まっていた馬車の馭者を見かけてまさかと思えば……。ガンガル、それにアンナ嬢にヴァルトブルク殿。君達はこんなところで何をしているんだ?」
いつの間にこんなに近距離まで迫っていたのか、物陰に押し込まれてガンガルの背に庇われた僕達の前には、ホーエンベルク殿が呆れ顔で立っていた。
「あ、あら、ご機嫌よう。ホーエンベルク様こそ、どうしてこんな場所に?」
「どうして、か。馭者に話を聞けば以前もここでベルタ嬢とガンガルが降りたと言うし、ここには奴の潜伏先がある。ベルタ嬢からそれを知らされていないはずはないな?」
彼女の質問にしっかり答えつつも、ガンガルに厳しい視線を送る彼に慌てて「ぼ、僕が、ここに来たいと、言ったんです」と声をあげると、ホーエンベルク殿の視線が今度はこちらを捉えた。
彼の紺に近い青の双眸が細められる。身長はそう変わらないものの、人の目を真っ直ぐ見るのが怖く、逸らさないでいるだけで精一杯の僕の手をしっかりと握りしめるのは、隣にいるアンナ嬢だ。
あの彼女が気圧されている。ガンガルの背中も強張っているように見えるし、僕はこの二人より歳上。だとしたら誰が責任を取るべきかなんて分かりきっている。
「う、うちの劇団に、脚本家が、もう一人欲しくて。彼を勧誘に、来たんです。じ、自分の名前がどこにも出ないのは、脚本家として、辛いと、思うし……ゴシップ物で、あれだけ、人の心を掴める彼の名が、パンフレットに乗らないのは、おかしい、から」
これは本当だ。昨夜劇団の練習が終わった頃にガンガルを連れてやってきたアンナ嬢からそう持ちかけられ、一も二もなくその案に飛び付いた。義姉上を悪役に仕立てあげる彼の脚本に怒りは覚えても、その根底にある演劇への熱を感じ取ることは何度もあった。
それなのに、あれだけの物語を綴れる彼の名を世間の誰も知らない。向こうはアンナ嬢の原作がなければ脚本を書くことのできない僕を、ライバルとして見てはいないだろう。そのことが堪らなく悔しい。こんなことは生まれて初めてだった。
途切れがちで聞き取りにくい僕の言葉を、静かな青の双眸が見据える。きつく握りしめてくる彼女と、ちらりと不安げにこちらを振り返る灰髪の少年に、ぎこちなく頷いて見せた。
「……分かった。そういうことなら、俺も護衛として同行させてもらおう。ガンガルの能力で不足があるとは思えないが、万が一ということもある。それに一応彼とは面識もあるからな」
てっきり反対すると思っていたホーエンベルク殿からの了承の言葉にポカンとしていると、すでに歩き出そうと身を翻していた彼が「何だ三人共。俺も理由があるなら止めたりしない」と苦笑する。
その言葉で路地に身を固める猫の子のようになっていた僕達は、慌てて先を歩き出した彼の背中を追った。




