*27* 沙汰が(向こうから)やって来た。
社会人をやっていたら大変なことも嫌なことも、予想もつかないようなこともままある。しかし寝て起きたら、大抵のことは“やらねば片付かぬ”という諦めの境地で乗り越えられるものだ。いや、乗り越えるしかない。
仕事で泥のように疲れて帰宅しても這いずって風呂に入らねばならないように、熱で意識が朦朧としていても市販薬でどうにか誤魔化して教材を用意するしかないように。全ては生きるうえで必要な金のためだ。
――とはいえ、人間物事には限度というか、自分の中でのそういう区切りにも上限のようなものがあると思う。
「はー……もういっそ国家予算レベルの金額書いてやろうかなぁ……」
憂鬱な溜息と共にベッドの上でうつ伏せになったまま、忌々しいもの置いた書き物机を睨み付ける。あれはいまから五日前のこと。二週間の沈黙を破り、それは前回とまったく同じように唐突に届いた。
仕事終わりのホーエンベルク様に教材選びに付き合ってもらって屋敷に帰ると、慌てた様子のアンナから見覚えのある封筒を手渡され、家族と使用人と彼の見守る前で封書を開けば、中には一枚の便箋と何も書かれていない小切手が入っていたのである。
結論から言えば連日不安で押し潰されそうになっていたのに、待っていた沙汰はあまりにも簡潔すぎ、尚且失礼なものだった。
まあ、要約すれば後任者が決定した。退職金を必要な額面小切手にしたため、後日父の務める職場に提出しろとかなんとかいった内容だ。
別にお礼を言われたり労われたりを期待してはいなかった。何せ教え子との狙った出会いとは違い、第一王子との始まり方は拉致からの出会いだ。王家に対しての印象は初っ端から最悪である。
――で、好きな金額を書けという無記載の小切手。
「いや……ないな。ないない。だって王子の教育費用も国費の一部よね? 国民から巻き上げた税金をさもポケットマネーみたいに扱うのって感じ悪いわ」
親のクレジットカードで課金して遊ぶ子供くらい質の悪さだ。それとも王様は下々の人間には分からないくらい大変な仕事だから、これくらいのことは許されるということなのだろうか?
何にしてもさっさとお金でケリをつけて出ていって欲しいという感じだ。せめて後任者の名前くらいは書いてくれよと思った私は悪くないはずである。
この件に関して父はひっそりとブチギレて便箋の方をダーツの的にし、妹は誠意がなさすぎると顔を真っ赤にして怒った。ホーエンベルク様達に相談しても同様の反応で、むしろ一番冷静なのが当事者の私だったりする。
しかし、解雇までに残された日数はあと十一日。待っていた沙汰がここまで理由に何も触れてくれていないと、子供達に納得してもらえる説明文を考えることができない。
「とはいえ、今日までが提出期限なのよねぇ。嫌なことってつい後回しにしちゃうから……っと」
ゴロンと寝返りを打った勢いをそのまま利用して起き上がり、書き物机の上にあった小切手を手にしばらくヒラヒラさせてから、思いきってペンを走らせた。大きく読みやすいように書いた金額は“0”。
田舎子爵家だからって馬鹿にするなよという密かな意地だ。そもそもうちの領地は小さいけれど貧乏ではない。それもこれも、私がこちらに出てくる前に行った教育政策を領民達が続けてくれているおかげだけどね。
その後は普段通りに出勤し、ホーエンベルク様と挨拶を交わしてから、先に城で仕事を始めていた父を訪ねて小切手を渡した。父は書き込まれた額面を見て「うちのお姫様は気高い」と笑って頭を撫でてくれた。
私としては男性優位な貴族社会で“女のくせに無礼なことを”と叱らない父の方が、余程気高く感じられたけれど。それを口にするのは気恥ずかしいからはにかむだけで留めておく。
就業開始時間ギリギリに図書室に辿り着いてマキシム様と授業を始めたものの、解雇のことを切り出すにはまだ自分の中で文面が組み立てられていなかったので、一晩考えてキリ良く残り期間十日となる明日に持ち越すことにした。
文句を言いつつ、最初の頃とは比べ物にならないほど真剣に授業に取り組むようになった第一王子。いまの彼の未来ならば、ゲームのようなバッドエンドにはならないだろう。
教え子との道はブッタ切ってしまった私ではあるが、この不器用な王子様にも幸せになってもらいたい。そんなことを考えながら平和な時間は過ぎていった。
――が、その翌日。
私はまたも拉致られていた。例によって例の如く突然に。いや、予告された拉致なんて聞いたこともないけど。
「落ち着け、落ち着くのよベルタ。大丈夫、こんなに上等そうな絨毯を汚すようなことは、誰だってしたくないはずだわ」
独り言でも呟いていなければ緊張で心臓が口から出そうだ。まさか昨日の小切手の一件が王家に対する不敬罪になったりするの? 密かに処刑とか? 嘘、私の国の王様、心狭すぎでは?
ガンガルの淹れてくれた紅茶のエグ味のおかげで、昨夜遅くまでかかって文面を練り上げて寝不足な脳を活性化させて登城できたと思ったら、馬車を降りたところでいきなり周囲を近衛兵に囲まれた。
近衛兵だと分かったのは、第一王子の教育係として拉致されたときと同じ格好だったからだけれど……問題はそこではなくて。彼等に有無を言わさぬ強引さで目隠しをされ、どこをどう歩かされたのか次に目隠しを外されたときには、あまり広くはないものの、やたらと高価そうな調度品の部屋にいた。
意味が分からない。意味は分からないが、近衛兵の中でも一番偉そうな人に部屋で待つようにと言われ、どうせ帰り道も分からないのだから留まるしかなかった。
王家に二度も拉致された子爵家の令嬢は私くらいのものではないだろうか。でもまぁ、拉致られてることなんて全然自慢にならないけど。クマ牧場のクマのように室内をグルグルしていた足を止め、座り心地の良さそうなカウチに腰を下ろして両手で顔を覆った。
「というか、人を呼びつける方法をこれ以外知らないのか王族ってやつは。下級貴族にだって予定があるのに何で毎度こんな忙しいときにばかり拉致るの?」
「謁見のために人を呼びつけるにも数ヵ月かかる」
「それにしたってもう少しやり方があるでしょう。周囲にあれだけ文官がいるんだから、彼等をもっと有効に使えば急ぎの謁見が必要そうな案件の精査くらいできるはずよ」
「成程。だがそこまで信の置ける文官ばかりがいるわけではない」
「それを見極めたいならまずもっと部下を観察すべきなのよ。そんな初歩的なことを飛ばして人間不信ぶるなんて愚かだわ。偉い人の前でだけ働いてる素振りを見せる奴ばかり目立つから、有能で目立ちたがらない人材が埋没してい、く、の……」
なかなか訪れない拉致首謀者に苛立ち、すっかり頭に血がのぼっていたせいで、自分の問に答えがくっついてくることに気付くのが遅れた。気付いて冷静になったところで、今度は両手をどけて答えた声の主の姿を見るのが恐ろしい。
今更遅いと思いつつ黙り込んだ私の耳に、十二月の記念式典で聞いた深みはあれど体温を感じない声が「どうした、続けよ」と先を促した。ああ……いまここで“いや、無理ッスわ”と何も考えずに答えられたら、どんなに良いだろうなぁ。




