*4* 我が家の弟分と父は有能です。
あの後マキシム様と勉強時間をやや圧迫する勢いでメンコ対決をしたものの、いつ自主練をしていたのか、なかなか上達していて楽しかった。
けれど、まぁ、そのせいで城から帰る頃にはやや汗臭くなっているという失態をしでかしたわけだけれど……。
令嬢としてあるまじきことである。おかげでお茶の時間には、フランツ様とホーエンベルク様に極力近寄らないでおこうとしたせいで、やけにマキシム様と仲良しな距離感になってしまった。
汗の匂いを気にしつつ屋敷に戻れば、出迎えてくれた執事とメイドの表情が不安げに曇ったので、慌てて事件に巻き込まれたのではないと玄関ホールで誤解を解くこと五分。結果……しっかり叱られました。
するとその騒ぎを聞き付けたのか、裏庭にいたらしいガンガルが裏手から玄関の方へと回ってきて、ヒョコっと私の後ろのドアから顔を出す。鼻の頭に土がついていることから、恐らく庭師仕事にかり出されていたのだろう。
「お帰りなさい、お嬢!」
「ただいま、ガンガル。良い子にしていた?」
「うん、して――……た、けど……」
けれど急に仔犬のように駆け寄ってきそうだったガンガルが、振り返った私に何か異変を感じたのか、戸惑うように後退りした。
「お嬢、その匂い……どうしたの?」
自分に懐いてくれている素直な子供にこれを言われるとは。相当酸っぱい臭いでもしているのだろうか。だとしたらヤバイ。人間自分の汗の臭いに他人ほど鋭くないのは、自家中毒を起こさないための生存本能に違いない。
「ご、ごめんね、そんなに汗臭い――わよね。大丈夫よ、すぐにお風呂に入ってくるから、話があるならあとで聞かせてもらうわね」
「あ、違う。そうじゃなくて、その臭い、オレ、嫌いなやつに似てる」
まずい。執事が目の前で乗馬鞭を手にした。何でこっちで乗馬することがないのにそこにそんなものが? まだ振るってはいないけど、時間の問題すぎる。
「一刻も早くお風呂に入ってくるわ」
「あ、あ、だから、そうじゃない! お嬢の匂いは好き! 違う臭いがついてる」
瞬間“ビュンッ!”と乗馬鞭が勢い良く風を切る。執事が振るった乗馬鞭の音を聞いたガンガルがビクッと身体をすくませた。え、ちょっと待って。我が家で体罰は看過できませんよ?
「お嬢様。すぐに湯の支度を整えますので浴室にてお待ち下さいませ。それからガンガル、お前は少しこちらに来なさい」
「ショーン、浴室で準備を待つのは手持ち無沙汰だわ」
「おや、ご安心下さい。何もガンガルを打つわけではございません。正直に話したくなるよう振るうだけです」
「そ……そう。でもお風呂の支度が整うまでガンガルと応接室で待っているわ」
背後にガンガルを庇いながら告げると、彼は「左様でございますか。畏まりました」と引き下がってくれ、事なきをえた。場所を移動して応接室につくなり、ガンガルは私の傍に寄ってきて「少し、触る。いい?」と言う。その瞳の奥に感情の揺れを感じて頷けば、ガンガルは私の髪を一房おずおずと掬い鼻を寄せた。
「やっぱり、気のせいじゃなかった。オレ、この臭い知ってる。前にオレを使ってた男がこれと同じ臭いしてた。お嬢、これどこでついたか分かる?」
「えっ、本当!?」
そう言われても……自分で自分の髪を嗅いでみたところで汗の臭いしかしない。ただ今日会った人達を思い出してみる限りでは、あのミドル以外はいつも顔を合わせる人達ばかりだ。
臭いの正体は分からないけれど、香水か何かだろう。そう思って「どんなものの臭いか分かる?」と軽い気持ちで訊ねれば、ガンガルは眉を顰めて憎々しげに口を開いた。
「人を壊す煙の臭い」
短いのに怯える響きを持ったその声と言葉から導き出される答えは、それほど難しいものではなくて。私は急ぎ執事を呼んで、城にいる父へ早く戻ってくれるよう遣いを出した。
お風呂に入って身を清め、ガンガルに細かく話を訊こうとしたところ、彼が途中で震え出したので部屋で休むように言い、一人で落ち着きなく応接室内をいったりきたりを繰り返すこと二時間。
応接室のドアがノックされ、外から執事が『旦那様がお戻りになりました』と告げてくれたので慌てて玄関ホールに向かうと、そこには父の姿があった。
「お帰りなさい、お父様!」
年末に行われる大舞踏会の準備で今の時期から多忙だろうに、娘からの要請に応えるべく、予定より早く帰って来てくれた父に駆け寄って抱き付く。
「やあ、ただいま、我が家のお姫様。随分熱烈な出迎えだな。さては父様に何かお願い事か?」
普通の令嬢より少々背の高い娘を苦もなく受け止めた父は、未だファンの多い微笑みをこちらに向けて目を細めた。
「う、確かにそうですけれど……そんなに私が熱烈に出迎えるときは、お父様にお願い事ばかりしています?」
「んー、そうだな。以前こんなに熱烈な出迎えをされたのは、お前達が領地で舞台を始めたばかりの頃だったねぇ」
そう言いながらも少しも気分を害していないと分かるのは、優しく頭を撫でてくれる手のせいだ。前世ではほとんどなかった親子の情を感じるとき、私の涙腺は緩みそうになる。ホーエンベルク様の前でうっかり泣いてしまったのは、父性を感じたからだろうか。
「それで我が家の聡明なお姫様は、手紙でなく帰ってこいとの言付けだけ寄越したわけだが、どんな内緒話をしたいんだい?」
そんな風に甘く微笑む父を見上げた直後、今日の城での遠眼鏡事件を注意することを諦めた。残念な人ではあるものの、あのミドルを見たあとに父を見れば、誰が何と言おうとナイスミドルだと認めざるを得ないのだから。