◉1◉ 婚約者の不在。
王都から一人で領地に戻るのは、流石にもう慣れたと言いたいところだけれど、今回はいつもと違って王都からというよりも、ある人から離れがたかった。
『君が、領地で頑張っている間に、僕も、隣国公演を皆と頑張る、ね。エステルハージ様に、君を任せても大丈夫な男だって、思ってもらえるように。それで……その、戻ってきたら、義姉上に領地経営を習うよ』
前回同様に五国戦記の第二期公演も隣国に招かれ、けれど今回はわたしに同行をして欲しいと申し出てこなかった彼は、そう言って気弱な微笑みとらしくもなく大きな決意の言葉を残して旅立った。
そんなことをお父さま相手に証明しなくても、もう両家の間で来年の八月に結婚式をすることは決まっているのに。だけどそれでもついて行くと言えなかったのは、わたしが彼の決意表明を嬉しいと思ってしまったから。
――それなのに、彼と別れてから一ヶ月でこうも心配になるなんて大誤算。
隣国に行くとはいっても、ミステル座の皆と一緒なのだから実質それなりの人数での移動にはなるけれど、お人好しな彼が何かに巻き込まれることがないかと不安になるのだわ。
だから次の五国戦記の小説の進みが思わしくないのよ、きっと。別に熊の国の主人公に煮詰まっているわけではないわ。たぶん。
“アンナ嬢、風邪など引かずお元気ですか? こちらでの公演は順調に進んでいます。前回一緒に稽古をした劇団員達が君の不在を嘆くのは相変わらずですが、僕は君がここにいないことを寂しいと思うと同時に、少し安堵しているよ。こちらの脚本家仲間が君のことをいたく気に入っているから……”
何度も読み返した彼からの手紙のそんな風な書き出しに、思わず「馬鹿ね」と苦笑と独り言が零れた。けれど彼のように的外れな心配は、わたしの中にも確かにあって。前回の色っぽい女優を思い出し、内容の最終確認をしていた返信の一部に“浮気しないでね”と書き足した。
子供っぽいかとも思ったけれど、社交界では、仕事が上手くいっている最中の男性が羽目を外す話を嫌というほど耳にするから、婚約者なのだしこれくらいの釘を刺しても良いわよね?
「お待たせガル。返事の手紙の準備ができたわ。起きて」
手許の便せんを整えて封筒に入れ、執務室にある来客用のソファーに向かってそう声をかけると、少しだけ眠たそうなガンガルが起き上がって顔を出した。
「ん……妹様、今度こそ王都に持ち帰る手紙は全部?」
こちらを窺うような視線に、すでに彼を一日足止めしてしまっていることへの罪悪感が芽生える。
「ええ、正真正銘、今度こそこれで全部よ。王都のお姉さまとお父さまへの返事はこれとこれ。こっちはヴァルトブルク様への国際郵便ね。次に王都の屋敷に彼からの手紙を向こうの配達員が持ってきたら、しっかり渡して頂戴」
「妹様の手紙、今回も二通分厚くて、一通薄いね」
「お姉さまとヴァルトブルク様には伝えたいことがいっぱいあるから。お父さまへは……まぁ、そこそこよ。帰りの荷物の方が重くなってごめんなさいね」
「ううん。大切なもの、重いの平気。それに帰りに食べるジャムももらった」
ガンガルはそう言うと、屋敷の厨房でもらってきたリンゴとアンズのジャムを嬉しそうに鞄から取り出して見せてくる。次に来るときにはガンガルの好きなナシのジャムの季節だろう。
「いっぱいあるからといって、歩きながら食べちゃ駄目よ? それから早く届けてくれるのは嬉しいけど、夜はちゃんと渡してあるお金で宿を取って休みなさい。お姉さまからの手紙にも、渡した旅費がそのまま手元に返ってくるから注意しておいて欲しいとあったわ」
「……でも、俺、一晩中歩ける」
この一ヶ月、彼はお父さまに頼まれて、手紙を直接王都から運んでくれていた。
理由は以前お姉さまが攫われたときに、途中で盗まれていた手紙が悪用されたから。今回から奪われそうになっても戦闘ができる郵便配達要員として、ガンガルが抜擢されているのだ。
お姉さまは最後まで危険なことをさせないで欲しいとお父さまに頼んだものの、流石にわたし達に甘いお父さまでも、一度はお姉さまを攫う片棒を担いだ彼のことを簡単に許すわけにはいかない。わたしもそう思う。
ガンガルもそれが分かっているから、自らお姉さまを止めてこの仕事を引き受けてくれている。ただ、だからといって彼に無茶なことをして忠義を示して欲しいわけではないのだ。
「歩けても駄目。お姉さまに朝起きて、夜は眠るように生活習慣を整えなさいって言われているでしょう?」
「んー……」
「お姉さまに嫌われるわよ。今から手紙に“ガルが言うことを聞きません”って書き足されたい?」
「うぅ……分かった、直す」
不承不承というように頷くガンガルを見て、何となく弟を持つ姉のような気分になってしまう。
それは何もお姉さまに『ガンガルがアンナより一つ歳下なだけなのに幼さが残るのは、辛い目にあった子供の特徴なの。だから優しく接してあげてね』と言われたからだけではなくて、彼の根の素直さのせいだ。
だいたい馬車を使った郵便手段より早いというのは……どういうことなの。どんな速度で移動しているのか怖くて聞けないじゃない。
「でも、ひとまずはガルが帰る前にお茶にしましょう。持ち帰るのには向かないけれど、美味しいミルクジャムがあるのよ」
わたしの言葉にすでに帰ろうと腰を浮かせかけていたガルが、もう一度ソファーに座り直す姿を見たら、ヴァルトブルク様の心配でいっぱいだった胸に、ほんの少しだけ余裕ができた。




