*18* 言葉を尽くしたんですよね?
ホーエンベルク様の複雑な立場を思えば、父がのたまった案をなかなか実行に移せなかった……と、言いたいところなのだが、翌日には早速城で就業時間前に助けを求めてしまった。
まだ名前も知らない少年があの後再び目覚め、私の制止を聞かずに父の行った無慈悲な給餌でフォアグラにされてしまうかもしれないという恐怖の前に、私は折れた。地下牢から連れ帰って来たのにお粥の誤嚥性肺炎とかで死なれては目もあてられない。
しかしあの一件から私一人では部屋に近付くことすら禁じられ、父が執事と給餌のために入室するときに部屋の外から覗くのだが、そのときに彼と目が合うと何かを目茶苦茶に叫ばれる。表情からして絶対悪口だと思う。
大抵すぐ父の手で襟首を締め上げられて黙ってしまうのだけれど、あれは相当逆恨みされているに違いない。
――ということで彼が目覚めて三日後。
本日はホーエンベルク様を講師にお呼びして、第一回エステルハージ家応接室開催のリベルカ語学習会となったのだ。
本当なら使用人達の気配がする屋敷ではなく、いつものカフェで待ち合わせて勉強を教えてもらいたかったものの、まだ攫われた記憶の新しい身としては断念するしかなかった。
しかしまさか、転生先で家族がいる家に異性の友人を呼ぶ気まずさを味わうことになろうとは……。先に休憩時間を指定したから、変なタイミングでお茶のお代わりを持ってきたりはしないだろうけど、何となく落ち着かない。
「今日はせっかくの非番なのに、こちらの都合で屋敷にお呼び立てしてしまって申し訳ありません」
「いや、構わない。目を覚ました彼の言葉を知りたいとのことだったが……貴方に教える立場になるのは不思議な気分だな」
城で見るよりもラフな格好で訪ねて来てくれた彼はそう言って笑うと、筆記具とノートの用意をテーブルに広げる。その中に数冊古びた手作り風のメモ帳が混ざっていた。恐らく生真面目な彼が戦場で纏めた単語帳か何かだろう。
泥とインクと水か汗か……そんなもので汚れたメモ帳は、ひどく私の心を惹き付けた。戦場で功績を立てたとなれば武勲だろうに、この人は最後まで対話を諦めなかったに違いない。このメモ帳はその証なのだから。
「そう言われてみれば本当ですね。今日はご指導よろしくお願いします……ホーエンベルク先生」
「あ、ああ、了解した。俺もそうリベルカの言葉が堪能というわけではないが、少しは力になれると思う」
貴重な資料と知識を少しでも多く身に付けようと心持ち身を乗り出せば、ホーエンベルク様はぎこちなく頷いてそう応じてくれた。こちらのやる気が伝わったのか、彼の頬にもやや赤みが差している。いい授業になりそうだ。
「ええとそれでは早速なのですが、ホーエンベルク先生に質問をしても?」
「ん、ん……どうぞ」
「彼に起き抜けに“ヴィテッチェ、スラーブラカ・ラマ”と言われたのですが、どういう意味なのかと気になっているのです」
むしろまだ私はそれしか聞けていない。あとは全て父の給餌中に室内から切れ切れに聞こえた悲鳴のようなものだけだ。食事の時間がトラウマになっていたりしなければいいのだが。
――と、私の質問を受けたホーエンベルク様が急に表情を曇らせた。
「彼は確かにそう発音したのか?」
「ええ、確かにそう言っていました。言葉は分からなかったので、あくまで音の響きとして感覚的に捉えただけなのですが……悪口かなと思います」
「大まかに言えばそれで合っている。ベルタ嬢は耳が良いのだな。質問がそれだけなら、先に単語と接続語の説明をしようか。完全な表記ではないかもしれないが、文字も教えよう」
良くない言葉だとは思っていたものの、ホーエンベルク様のあからさますぎる会話の打ち切り方に思わず笑みが零れた。本当に生真面目で優しい人だ。メモ帳を開くこともしなかったことから察するに、きっと彼も何度も投げかけられた嫌な言葉なのだろう。
「いえ……できれば先に彼が言った言葉の意味を知りたいのです。ただの悪口だったとしても、何か訴えたいことがあったのかと気になっていて」
生徒の問いかけに、先生は一瞬だけ手近にあったメモ帳を握りしめると、溜息をついて口を開いた。
「……“ヴィテッチェ”は触るなという拒絶で“ラマ”は女や女性を表す」
「“スラーブラカ”は何なのでしょう?」
「そうだな……不完全、だ」
「成程。それなら彼は“触るな不細工女”とでも言ったのですね」
スラスラと答えてくれるホーエンベルク様の苦々しい表情と気配から察するに、本当はもっと激しいスラングなのかもしれない。けれど彼は私を傷付けないように元の言葉より柔らかく訳してくれた。悪口を教わったはずなのに、そのことがとても嬉しくて悪い意味が霞んでしまう。
「……他には?」
「え?」
「他にもあるのだろう。何を言われたか教えてくれ。今度ははぐらかさずに最初から答えよう。できる限りだが」
どこか不貞腐れたようなホーエンベルク様のその言葉を皮切りに、私は次々と少年が叫んだ言葉を彼に伝え、優しい意訳を教えてもらっていたのだけれど――。
二十個目の単語を質問したところで、ホーエンベルク様が不意に立ち上がり「彼の部屋に案内してくれ。直接話したい」と微笑んだ。
ちょっと見たことのない有無を言わせぬ笑みに思わず頷いてしまい、応接室の外に控えていたメイド達を散らして二階の少年の部屋まで案内するも、彼は「俺が応接室に戻るまで、決してこの部屋に近付かないでくれ」と。まるで昔話の鶴のようなことを言い残して室内に姿を消した。
一抹の不安を感じながら階下の応接室に戻ってしばらく経った頃、急に階上から激しく口論するような声が聞こえてきた。慌てて部屋を飛び出して階段下まで行くと、彼に見張りを頼まれたのだろう執事に「お戻り下さいお嬢様」と応接室に連行されてしまい……。
自邸だというのに、階上で繰り広げられる言い争いを悶々としたまま聞き続けるという謎時間を過ごす羽目に。
そのままメイドが気を遣って淹れてくれた四杯目の紅茶を眺めていると、ようやく言い争う声が途切れて階上でドアの開く音が聞こえ、ややあってから応接室のドアがノックされた。
直前まで散々紅茶を飲んでいたのに、緊張からカラカラになった喉で「どうぞ」と応えるとゆっくりとドアが開き、少年を狩りの獲物の如く肩に担ぎ上げたホーエンベルク様が入室してきて――。
「彼が貴方のことを誤解していたから謝罪をしたいそうだ。なぁ?」
そうにこやかな表情を浮かべつつ、最後の一音に含みを持たせたホーエンベルク様が床に立たせた少年は、明らかに怯えの見える表情で、小さく一言「ごめん」と言った。




