★10★ 天秤の不在。
『マキシム様は集中力の持続性にムラがあるのでお手数だとは思いますが、この砂時計の砂が落ちきったら、三十分ほど息抜きを挟んでさしあげて下さい』
そう言って彼女に手渡されたのは、六十分と十五分の砂時計。
いま彼女の助言通りにひっくり返されている六十分の砂時計の残り時間は、残すところ半分となった。
以前まではあまり馴染みのなかった王城内の図書室で、全体的に色味は似ているものの、中身の性格はまったく異なる王子達の授業を一人で受け持つことになって三週間。
マキシム様とフランツ様は二歳違いではあるものの、マキシム様の方がベルタ嬢に出会うまでの学習に遅れがある分、学ぶ内容はそう変わらない。
そのため授業に使用する教材の用意に苦労はないのだが、代わりに時間配分に注意を払う必要がある。いや、あった。以前までは。
本来ならば興奮と緊張だけで良いはずの舞台公演初日。公演後の劇場内で不審者に襲われたと聞かされて以来、こちらから六度ほど彼女を訪ねはしたが、彼女が登城したことはない。
三日ほどベルタ嬢が登城しないとなれば、当然マキシム様とフランツ様から説明を求められ、彼女は子供にそういった情報を教えることは好まないだろうとは思ったが、隠すことで変に誤解が生じるよりはと説明をした。
二人の王子は意外なほどすんなりと彼女の状況を受け入れ、以後毎日をこの図書室で共に過ごしている。
「私がこの二週間で怪しいと思った人物は、新たに四家といったところでしょうか。調べさせたところこの四家は第一王子派閥でも、第二王子派閥でもありません。だからといって中立派でもない」
「ふん、相変わらず文官の家は風見鶏のような連中だな。騎士団の者達にそのような腰抜けはいないぞ」
「あの、兄上……それでいくとベルタさんのエステルハージ家も文官家系ですが」
「――……文官家系にも例外はいる」
「そうですね! では話を戻しますが、兄上が気にされていたランベルク公の名はやはまだ上がっていません。それどころか彼女の擁護派に回っています」
「そんなはずはない。ランベルク公は絶対にベルタを快く思っていなかった。それにベルタが登城しなくなってからしばらく経つのに、まだ一度も新しい家庭教師を寄越そうとしてこないのも妙だ」
半分より薄いとはいえ、彼等の血の繋がりがある伯父に対しての評価がそれなのだと思うと、もう随分長く会っていない自分の弟もこんな風に思っているのだろうなと苦笑してしまった。
本日の授業を潰しての議題も、城の中でベルタ嬢に害をなすかもしれない貴族の洗い出し作業だ。以前までは廊下ですれ違おうとも道を譲る立場と、譲られる立場でしかなかった兄弟が、互いにかき集めた情報を共有して論じている。
兄は軍事畑、弟は政治畑を。どちらの情報も合わせることができれば、平たい机上の空論も少しは立体的なものになるものだ。
「それは単にベルタさんの代わりが務まる人材がいないからでは?」
「あのな、フランツ。お前はあまり接点がなかったから知らんだろうが、ランベルク公はそういう男じゃない。実際以前までならそういう人材しか送り込んでこなかった。ホーエンベルク、お前はどう思う。意見を聞かせろ」
そう言いつつ机の上に脚を乗せて座るマキシム様には、恐らくもう結構前の段階で渡された砂時計の時間を越える集中力が身に付いている。彼は自分に手を焼きつつも、正面から向き合おうとする彼女に甘えていたのだろう。
さらに彼女が隣に座って教えた遊戯盤の戦法を少しずつ吸収していたマキシム様は、次代の王としての片鱗のようなものを見せ始めていた。今はまだ小指の爪ほどしかない鱗だが、ここまでの成長の早さを考えれば、あっという間に大きくなるに違いない。
しかし諫める彼女の不在により、この三週間ですっかり横柄な物言いに戻ってしまったマキシム様から水を向けられ、ザッとテーブルに広げられた紙の上に並ぶ家名を流し読み、その中から気になる名前を幾つか拾い上げた。
「は。では、僭越ながらお二人の情報に補足をさせて頂きます。まずこちらの歴史ばかりある子爵家は無視しても問題はありません。ただこちらの子爵家は二代前に金で爵位を買った成り上がり者ではありますが、情報網の広さは侮れないかと」
説明を進めるうちに六十分の砂時計の砂は落ちきり、足された十五分の砂も残り少なくなった頃、図書室のドアがノックされ、アウローラ嬢が訪ねてきているという先触れが入った。
「ちょうどいい時間帯だ。そろそろ一度休憩を挟みましょう」
毎回落ちきった砂時計を回収するこちらの手許を見つめた二人の王子が頷くたびに、彼女の天秤としての存在の大きさを実感するのだった。