【2-77】凍てついた眼差し
室内で何かが割れたらしい音が聞こえ、部屋の外にいる者たちは顔面蒼白になった。彼らの中でも特に焦燥感を露わにしているリアムは、ジョセフへ向かって手を差し出す。
「ジョセフ、鍵を!」
「はっ!」
ジョセフは懐に収めていた鍵束を出し、応接室の鍵を探し当ててから主へと手渡した。リアムはもどかしい手つきでそれを鍵穴へ突っ込み、鍵を回したりドアを押したり引いたりを素早く繰り返して試したが、苛立たしげに首を振る。
「駄目だ、おそらく閂錠を掛けられてしまっている。こちら側からは開かない。……ランドルフ!」
リアムはランドルフの襟元を掴み、相手を荒々しく壁へ押しつけた。そして、憤怒と憎悪を浮かべた藍紫の眼で、怯えている琥珀の瞳を凝視する。
「言え。マデリン様は何を企んでいる!? 中で何が起ころうとしている!?」
「ぼ、僕は、何も、」
「言え、ランドルフ!」
「本当に知りません! 今までの無礼をキリエ様へお詫びしたいと、決心が鈍る前にどうしても今日お伝えしたいと、そう仰るから此処へお連れしただけです! 本当です!」
半泣きで叫ぶように言うランドルフを、リアムは舌打ちと共に解放した。そうかと思えば、唐突に何処かへと駆け出して行く。夜霧の騎士を追ってすぐに走り始めたのは、ジェイデンだった。同時に、マクシミリアンも主君へ続く。
「リアムは庭側の窓から突入するつもりだろう。僕たちも行くぞ!」
ジェイデンの言葉を受け、ジョセフとランドルフも後へ続いて駆けた。
◇
「マデリン、やめてください!」
「うるさいですわよ! ちょこまかと逃げ回っていないで、さっさと死になさい!」
「マデリン……ッ」
「死になさいよ! 早く! 死ね!」
マデリンは短剣を振り回しながら、執拗に追い掛けてくる。キリエは狭い室内を逃げるので精一杯だ。
マデリンが投げてきた物がぶつかったのか、逃げている途中でどこかに引っ掛けたのか、花瓶等が割れた破片が当たったのか、詳細は不明だがキリエの手や頬には浅い切り傷がいくつもついていた。しかし、その痛みなど感じないほど、キリエの脳内は混乱と恐怖が満たしている。
「貴方がワタクシから全て奪っていったのよ! 貴方が……っ、アンタが、いなければ! ワタシは! こんなに落ちぶれたりしなかった!」
マデリンの口調が、段々と崩れていく。それが本来の彼女の語り口なのかもしれない。興奮したように荒い呼吸の狭間で、マデリンは呪いの言葉を吐き続けた。
「アンタなんか孤児のくせに! 貧乏人らしく、その辺の田舎でくたばっていればよかったのに! なんで今更! この時期に! のこのこ現れたりしたの!? なんで今まで生きてたの!? アンタなんか早死にすればよかったのに! いいえ! アンタなんか生まれなければよかったのに!」
キリエを傷つける言葉は止まらない。攻撃の手も、止まらない。キリエの心身に切り傷が増えてゆく。
「アンタさえ現れなければ! リアム=サリバンは落ちぶれたままだった! アンタさえ現れなければ! ランドルフは王国一の騎士の座にいたままだった! アンタさえ現れなければ! ジェイデンやジャスミンはワタシを姉と慕ってくれてた! ワタシは女王になれるはずだった! お母様から叩かれる回数だって増えなかった! 全部! 全部! 全部全部全部! アンタのせいだッ」
「僕は、そんな……っ」
「アンタが生きているせいで! ワタシの人生は崩壊した! 国民を救う!? 優しい王国を目指す!? 笑わせないで! ワタシの人生を壊したその手で! 誰を救えると言うの!? アンタが救えるものなんて何も無い! 偽善者め! 死んで償いなさいよ! 死ね! 死んでしまえ! アンタが死ねば! ワタシはまだ生きられる!」
マデリンの言葉が正しいとは思えない。彼女が口にしているのは、言いがかりと八つ当たりだ。そう頭では分かっているのに、それでもどす黒い呪詛はキリエの心を蝕んでゆく。
自分がしていることは本当に正しいのだろうか。次期国王選抜に首を突っ込んでしまったのは間違いだったのだろうか。そんな心の迷いが、キリエの足をもつれさせた。
「ぅ、わ……っ」
キリエは転倒し、足首を捻ってしまう。すぐに立ち上がろうとしても、手足に力が入らない。その隙をマデリンが見逃すはずもなく、狂気に満ちた嗤い声を上げ、短剣を振りかざしながら駆けてきた。
「ふふ、はっ、あはははっ! 死ね! 死ね! キリエ──!」
ああ、ここまでか。リアムの言うことを聞けば良かった。
後悔と絶望を胸中で渦巻かせながら、キリエが目を瞑った、──そのとき。
突如、激しい音を立てて窓硝子が砕け散る。
「な……ッ、ぅ、ああぁぁッ」
「マデリン!?」
驚いたマデリンが足を止めたかと思いきや、次の瞬間には彼女の身体は思いきり吹き飛んでいた。何が起きたのか、わけが分からない。
混乱するキリエの背筋を、冷たいものが駆け上がっていく。無意識に身震いしたキリエは、マデリンから窓辺へと視線を移し、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「リアム……」
そう、其処にはリアムが立っている。おそらく庭側から窓を蹴破って突入してきたと思われる彼は、凄まじい殺気を放っていた。リアムは氷点下の眼差しで、じっとキリエを見つめている。彼が抱いているのはキリエに対しての怒りではなく、キリエが傷ついている姿への憤りだ。
「キリエ様、御怪我をされてしまったのですね」
「えっ……、あ、き、気づきませんでした……」
「貴方に血を流させ、涙を流させ、恐怖を抱かせ、傷つけたのは──こちらの王女様ですね?」
怒りの沸点を通り過ぎて感情を失っている声は、あまりにも冷徹な響きである。キリエも、そしてマデリンも、追いついてきた他の者たちも、歯止めがきかないであろう殺気を目前にして身動きひとつ出来ない。
凍りついている場の中、リアムは腰を抜かしているマデリンを見やり、小さく問いかけた。
「マデリン様、お覚悟はよろしいですか?」




