【2-67】神が約束した平和
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「ウィスタリア王国は、今から千年ほど前に、初代国王である英雄ユージーン様が神様より贈られた素晴らしい国です」
王都から少し離れた場所にある、今年開設されたばかりだという孤児院では、新たな試みとして教員資格を持った職員を置いて簡単な授業をしているのだという。孤児の大半は学校に通うことが出来ないため、孤児院を出た後の働き口も限られてしまっている。こうして孤児たちに教養を身に着けさせるのは、とても良い試みだろう。
キリエは現在、リアムと共にこの孤児院の視察に訪れていた。寄せられた公務依頼の一件である。本日はウィスタリア王国の歴史を大まかに学ぶ授業らしい。
教室の後ろに座っている王子が気になるのか、子どもたちはチラチラと後ろを振り向いてきた。キリエが微笑んで、前を向くように手で促すと、子どもたちは嬉しそうに笑いながらも教師へ向き直る。
「百五十年前に起きた戦争により、ウィスタリア中大陸の中には、ウィスタリア王国の他にアルス市国とモンス山岳国が出来ました。でも、今は戦争をしないという約束をしています。そして、お互いの国同士の交流や文化情報の交換は禁止されています。悪い大人の中には、異国の情報を秘密で仕入れて売ろうとしているような人もいます。でも、そういう悪いことをしていたら、捕まって怖いお仕置きをされてしまいますからね。皆さんも、気をつけてください」
はーい、と子どもたちの素直な声が重なった。教師はそれを満足そうに眺めて、さらに話を進めてゆく。
「ウィスタリア中大陸の周りには、広い広い海があります。その海の向こうには、もっと大きな大陸があって、また違った国があるそうです。でも、初代国王ユージーン様は、ウィスタリア王国の民がウィスタリア中大陸から外には出ないことを神様に約束しているのです。神様は、私たちが海を越えない代わりに、ウィスタリア王国の繁栄を守ってくださっているのですよ」
そのとき、一人の少女がまっすぐに手を挙げた。教師が発言を許可すると、少女は無邪気な声で問いかける。
「どうして、ユージーン様は神様とそんな約束をしたんですか? どうして、海の向こうに行っちゃダメなんですか?」
「良い質問ですね。それは、海の向こうはとても恐ろしい場所だからです。確かに、ウィスタリア中大陸よりも、もっと大きくて広い土地があるようですが──、そのぶん、怖いものがたくさんあるそうです。ウィスタリア王国は、とても平和でしょう? 私たちが約束を守っている限り、神様はこの国の平和を守ってくださっているのです」
その教師の言葉は残酷なのではないかと、ふとキリエは考えてしまった。
ウィスタリア王国は、百五十年前の戦争以外は大きな争いも無く、比較的穏やかな国であるのは確かだろう。平和な国と言えるのかもしれない。しかし、孤児たちの生活は決して平穏なものでも平和なものでもないのだ。
キリエも幼い頃から、今の教師が語っていた内容とほぼ同じことを神父から教わってきた。十年前にリアムに助けられてからは神の存在も信じるようになったため、初代国王と神が交わしたという約束に疑問も抱かず、この国の平和が末永く続くことを祈ったりもした。
──けれど、この国は、本当に平和なのだろうか。
貧富の差は大きいことはキリエにも分かっていたが、王都で暮らすようになってからは身分の差も強く意識するようになった。大きな心配事もなく自由で安泰な生活を送れている王国民はほんの一握りの、金と権力を莫大に持っている者だけだ。彼らの平和を守るために、数多の人間が踏み台になってしまっている。──それは、本当に神が祝福した平和な国の在り方なのだろうか。
この十年、キリエはずっと神を信じてきたが、その信仰心が若干揺らぎ始めている今日この頃である。
「キリエ様、……キリエ様」
耳元に低い囁き声が落とされていることに気づき、我に返ったキリエは肩を跳ねさせた。リアムはそんなキリエの様子を見ながら、心配そうに小声で問いかけてくる。
「キリエ様の御挨拶の時間が回ってまいりましたが……、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。すみません、少し頭がぼーっとしていました」
「ご気分が優れないようでしたら、挨拶の場は辞退してお休みいただいても……」
「いいえ、大丈夫です」
教師と子どもたちからの視線が集中しているのを感じ取り、キリエは努めてにこやかな表情で立ち上がり、教室前方へと進み出て壇上へと上がった。リアムもすぐ後ろを付いてきて、背後に控えている。
「皆さん、こんにちは。僕は、キリエ=フォン=ウィスタリアと申します。本日はお招きいただいて、皆さんの授業風景を見せていただいて、ありがとうございます。このような教育の場が新しく誕生したということをとても嬉しく感じ、そして──」
子どもも大人も、瞳を輝かせながら食い入るようにキリエを見て、その声に耳を傾けた。どこか陶酔しているような彼らの雰囲気を感じ取り、やはりキリエには特別な能力があるのかもしれないと、リアムは改めて考えるのだった。




