【2-59】最後の愛情
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リアムたちがサリバン邸に到着すると、セシルと、一足先に戻っていたエレノアに慌ただしく出迎えられた。
「いらっしゃいませ、お客様。おかえりなさいませ、リアム様。……実は、キリエ様が、」
「先程エドに遭遇して、話は聞いた。キリエ様はどちらに?」
「御部屋の寝台で横になっていただいております。まだ意識は戻られておりません」
「ずっとジョセフさんが付き添っておられますが、かなりの高熱を出されていらして、でも、手は冷たくて……」
セシルの大きな瞳は心配そうに揺れており、流石のエレノアでも不安そうな表情を浮かべている。リアムは青白い顔で頷いた。
「俺はキリエ様の様子を見てくる。セシル、ノア。客人──ランドルフをソフィアの元へ案内してくれ」
「かしこまりました」
「御意」
「ランドルフ、すまないが、ソフィアを連れて帰ってもらえるか? 俺はキリエ様に付き添いたい。馬車は使ってもらって構わないから、」
「リアム!」
リアムがランドルフへ語り掛けている途中、どこか恍惚とした女の声が響く。見れば、虚ろな瞳で狂気じみた笑みを浮かべたソフィアが、まっすぐに玄関へ向かってきていた。付き添っていたと思われるキャサリンが腕を引いて止めようとしても、ソフィアは全く意に介さず我が道を進まんとしている。
その様子に、かつての面影は無い。強く優しかったはずの彼女が、今は心を閉ざして病んでいる。腹部はまだ平らだが、そこには新たな命が宿っているというのに、彼女はそれを忘れてしまっているかのようだ。
あまりにも痛々しい姿を目の当たりにして、リアムの心へ軋むような苦痛が圧し掛かってくる。
「リアム……、ああ、リアム、会いたかったわ」
「──今更、何の用だ? 俺はお前に会いたくなどなかった」
「……えっ?」
あえて冷たい言葉を投げつけたリアムを凝視しながら、ソフィアは足を止めた。信じられないと言わんばかりに目を見開いた彼女は、無意識だろうか、何度も首を振る。
隣のランドルフも、驚いたようにリアムとソフィアを交互に見比べている。
「聞こえなかったのか? 俺はお前に用など無い。夫と共に、さっさと出て行ってくれ」
解放してあげなければ。──リアムは、そう思った。
おそらく彼女は、三年の月日をかけて、ランドルフの妻となったことを納得したはずなのだ。だからこそ、夫を受け入れて、子どもを授かった。しかし、いざ己の身体に変化が訪れたとき、蓋をしたはずの過去の想いが溢れてきて、精神が不安定な混乱状態になってしまったのだ。
ソフィアを苦しめている原因は、リアムとの思い出なのだろう。
ならば、解放してあげなければならない。かつての婚約者はこの五年の間に冷酷な男になったのだと、甘い気持ちを抱き続けているだけ無駄なのだと、そう信じさせてやらねばならない。
──それが、彼女に贈ることが出来る最後の愛情であり、過去への清算にもなるだろう。
「ソフィア。お前は俺を捨てたんだ。没落貴族の末裔となった俺などに、好意は無くなったんだろう? それなのに、今更なんだと言うんだ」
「ち、違う、本当は、本当は私、貴方と、」
「それこそ、違うな。本当に俺と添い遂げたいと願ってくれたのなら、何もかもを捨てて俺の元へ来てくれたはずだ。全てを捨てて新たな人生を掴み取ったキャサリンのように」
「そ、そんな……」
「ソフィアだけを責めるつもりはない。俺だって、全てを捨てて一緒に来てほしいとお前に縋りついたりしなかった。──俺たちの縁は、互いにその程度のものだったんだ」
絶望的な眼差しを向けてくるソフィアを振り切るように、リアムは彼女へ背を向けた。
「もう二度と、現れないでくれ。……元気な子を産んで、どうか幸せに」
「ぁ、あ、貴方は……」
「俺は今、唯一無二の主君と出会い、幸福を手にしている。お前も、手にしたはずだ。新たな生命を愛しく思う幸せを噛みしめて、健やかに生きてくれ」
そう言い残し、リアムは足早に大階段を上っていく。ソフィアの慟哭が聞こえてきたが、決して振り返らない。彼女には、ランドルフがついているのだから。
二階に着いたリアムは小さな深呼吸をしてから、キリエの私室を目指して駆けた。
キリエの部屋へ入室すると、寝台の横に膝をついていたジョセフがハッとしたように振り向く。
「リアム様、おかえりなさいませ。キリエ様が……」
「ただいま。──急に倒れたそうだな」
「ええ。……申し訳ありません、私がお傍についていながら」
「ジョセフのせいではないだろう? ……キリエ、ただいま」
リアムもジョセフの横に膝をつき、キリエの顔を覗き込んだ。意識を失ったままの顔は眠っているとは言いがたい、どこか苦しげな面持ちである。そっと手に触れてみると、セシルが言った通り、ひんやりと冷たく感じた。
「……キリエに、怒りを感じていた様子はあったか?」
「えっ? いいえ、お怒りの御様子はありませんでした。ソフィア様に対して何かお思いになることがあられたのか、どこか傷心の御様子ではありましたが」
「そうか。……瞳の色が変化したりも、していないな?」
「そういった御変化は見受けられませんでしたが……?」
キリエの瞳が紅く染まっていたときのことを思い出したリアムだが、今回はそうではないようだ。
「……とにかく、医者の到着を待とう」
「はい、……そういたしましょう」
ジョセフは若干物言いたげな表情をしたものの、突っ込んで問いかけてくることはせず、同意を示してきたのだった。




