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夜霧の騎士と聖なる銀月  作者: 羽鳥くらら
第2章
73/335

【2-55】ソフィア=ランドルフ

 ◇



 キリエの私室では、キャサリンが差し入れてくれた茶と菓子の香りが漂うと同時に、ジョセフの穏やかな声音が静かに響いていた。窓の外からは、いつの間にか降り出していた雨の音が聞こえてくる。なんとも落ち着いた時間だ。


 まだ上位文字が不慣れなキリエでも読みやすいような子ども向けのウィスタリア地理教本を広げつつ、優しい口調で分かりやすい授業をしてくれていたジョセフだが、不意に真顔でドアを見つめる。キリエもつられてそちらを見たのだが、誰かが入室してくる気配も無い。


「ジョセフ、どうしたのですか?」

「申し訳ございません、キリエ様。お勉強を少々中断させていただいてもよろしいでしょうか? 何やら、玄関が騒がしいようです」

「えっ、玄関……?」


 キリエの私室は二階の奥まった部分にあり、玄関の様子など分からない。ドアを閉めていれば、尚更のこと。キリエは試しに耳を澄ませてみたが、やはり何も聞こえない。

 リアムも人の気配に敏感だが、ジョセフも同じなのかもしれない。彼らが師弟関係にあることを思えば、それも納得できる。


「様子を見に行くのですよね? それなら、僕もご一緒します」

「キリエ様もですか?」

「はい。リアムは僕に、絶対にジョセフから離れないでほしいと言いました。だから、ジョセフが行くのなら僕も行きます」

「かしこまりました。では、キリエ様、私の傍にいらしてくださいませ。来訪者がどなたか判明するまでは、私の背後から離れないようお願いいたします」

「分かりました」


 ジョセフに付き添われながら部屋を出て廊下をしばらく進むと、キリエの耳にも誰かが声を荒げているのが聞こえてきた。聞き覚えのない女性の声だ。ちらりとジョセフを見上げると、彼は声の主に心当たりがあるのか表情が硬かった。


「なんとか言ってよ、キャシー! どうして貴女がここにいるの!? どうして、ここに……リアムの傍に貴女が……っ」

「誤解ですわ、ランドルフ夫人。わたくしに下心など、」

「私をそんな風に呼ばないで! 私は、私は結婚なんて……!」


 玄関には、オロオロしているエドワード、困惑しているキャサリン、そして赤みがかった金髪の美しい女性がいる。少し離れた場所では、おそらく騒ぎを聞きつけて来たのであろうエレノアとセシルが様子を窺っていた。


 キャサリンは、見知らぬ女性をランドルフ夫人と呼んでいた。年齢としてはまだ若いので、マデリンの側近であるランドルフの母親というわけではなさそうだ。──ということは、あのランドルフの妻……リアムの元婚約者であるソフィアなのだろうか。

 キリエがジョセフと共に大階段を下りていくと、使用人一同はハッとして一礼し、ランドルフ夫人も我に返ったのか頭を下げてくる。


「エド、どういった状況かな?」

「は、はい! えっと……、お屋敷の前をこのご婦人がウロウロしていたんで、声を掛けに行ったんすよ。そうしたら、リアム様のお知り合いってことで、怪しい人にも見えなかったし雨が降ってるんでお屋敷の中に案内してきたんすけど……、そしたら、通りすがりのキャシーさんと、なんか、その、」

「エド。大体のことは分かったから、もういいよ」


 どう説明したものかと狼狽えているエドワードを柔らかく制止し、ジョセフは来客へ向けて丁寧に一礼した。


「ソフィア様、ご無沙汰しております」

「……久しぶり、ジョセフ。貴方はまだ、リアムの傍にいたのね。──そして、お初にお目にかかります。キリエ王子殿下でいらっしゃいますね?」

「えっ……、あ、はい」


 急に会話の矛先を向けられ、キリエはジョセフの隣で姿勢を正す。面と向かって王子と呼ばれるのはまだ不慣れなため、なんとも微妙な心境だ。物憂げな美女は、改めて頭を下げてきた。


「突然に押しかけたうえ、お見苦しい所をお見せしてしまいまして、大変失礼いたしました。……私は、ソフィア。……ソフィア=ランドルフと申します」


 やはり、彼女はソフィア──リアムの元婚約者だったのだ。

 ランドルフの家名を口にするとき、ソフィアは苦しげに顔を顰めていた。ランドルフとの結婚は、彼女にとっては望まない結末だったのかもしれない。


「ソフィア様、当家をご訪問いただくのは、あまりよろしくないのではないでしょうか? そして、当家の主はただいま不在でございます。……ご懐妊されたと伺っております。おめでとうございます。こんな雨の日に出歩かれてお身体を冷やされないほうがよろしいでしょう。馬車をお出しいたしますので、お帰りになられたほうが、」

「いいえ、リアムを待たせていただけるかしら。……彼におはなししたいことが、あるの」


 ジョセフが帰宅を促すも、ソフィアにはその気は全く無いらしい。彼女は昏い瞳で宙のどこかを見つめ、ぽつりと呟いた。


「私……、やっぱり彼の妻になりたいの」


 誰一人として声を上げることすら出来ないほどの驚きを噛みしめ、気まずい沈黙がその場を満たしていった。

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