【2-21】思い出の味
退室して行ったリアムは、十五分ほどで戻ってきた。彼は脇に本を抱え、木製の小さな盆を持っている。盆の上には、持ち手のついたゴブレットが載っていた。
「やはり、まだ眠れていなかったのか」
「はい……、すみません」
「謝らなくていい。キリエは、そうやってすぐに謝る癖を直した方がいいな」
「だって、申し訳ないなって思っているのは本心なので」
「申し訳なくない。もう少し、他人に甘えることを覚えていこう。……ここ、座ってもいいか?」
「あっ、はい。勿論です、どうぞ」
キリエに許可を取って寝台の端に座ったリアムは、ゴブレットを差し出してくる。杯を満たしている飲み物からは湯気が立ち上り、甘さの中に香辛料が混ざったような香りが漂っていた。
「飲んでみろ。……熱いから、気をつけてくれ」
「はい。ありがとうございます」
キリエは恐る恐る受け取り、そっと口をつけてみる。火傷しないように注意しながら飲んでみると、不思議な風味と控えめな甘さが口の中に広がった。
「ん、……美味しい! 初めての味です」
「濃い目に淹れた茶をミルクで割って、体を温めるスパイスと、蜂蜜を混ぜたものなんだ。それを飲むと、寝付きやすくなる。飲めるところまででいいから、飲んでみてくれ」
「すごい、こんな飲み物があるんですね。ありがとうございます。いただきます」
ふぅふぅと息を吹きかけて冷ましつつ少しずつ飲んでいるキリエを見守りながら、リアムはぽつりぽつりと語り始める。
「……それは、ジョセフがよく作ってくれたものなんだ」
「ジョセフが?」
「ああ。──この屋敷が出来たばかりの頃、俺の傍にいたのはジョセフだけだった。色々と考え込んでしまう夜が多くて、俺は不眠がちだったんだ。そんなとき、ジョセフはこれを作ってくれた」
「……これは、リアムの思い出の味なんですね。あったかくて、ほんのり甘くて、少しほろ苦くて、美味しいです」
リアムは頷き、思い出を辿るように、視線を空中のどこかへ向けた。
「サリバン家が没落したとき、使用人たちは皆が辞めていった。それでいいと思っていたし、それぞれに心づけ程度の金を持たせて見送った。だが、ジョセフだけは、俺と共に来てくれたんだ。数年経った今はこれでも少し落ち着いてきているが、当時の王都ではサリバン家への罵詈雑言が本当に凄くてな……、俺なんかに仕えていても、ジョセフには何の利も無かった。それでも、彼は俺を見捨てることなく見守ってくれたんだ。──俺も、そうなりたい」
静かに語るリアムの横顔には、少しだけ憂いが滲んではいるが、傷ついているという雰囲気でもない。キリエは頷きを相槌とし、そのまま続きを聞くことにした。
「俺がどんな逆風の中にいても、ジョセフだけは味方でいてくれた。そして、彼が信じて付いて来てくれたからこそ俺は前へ進んでいけたし、次第にこの家にも人が増えていった。……お前にとっての俺は、俺にとってのジョセフでありたい。そう、思っている。……すまない、喋りすぎてしまったな」
リアムが語り終えた頃には、キリエはミルクティーを飲み干していた。洋杯が空になったことに気付いたリアムはキリエからそれを受け取り、盆へと戻す。
「ごちそうさまでした。素敵なおはなしを聞けて、体も心も温まりました」
「いや、そんな……、キリエが相手だとなんだか話しやすいからか、つい語りすぎてしまうな。恥ずかしい」
「恥ずかしくなんかないです。──それに、もう、君は僕にとって、君にとってのジョセフと同じですよ」
「……そうか」
「はい」
リアムは気恥ずかしそうに咳払いをして、持ち込んできた本を膝の上で開いた。丁寧な作りの写本は、年季が入っているものの見るからに高価そうなものだ。
「流石に添い寝は出来ないが、お前が寝付くまでここにいよう」
「えっ?」
「人の気配があった方が落ち着くんだろう? ここで本を読んでいるから、気にせずに寝てくれ」
それだけ言うと、リアムは黙々と文字を追い始める。本当に、ただ読書をしているつもりなのだろう。彼の優しさを感じ取りながら、キリエは布団の中へ身を押し込めた。こんなに厚みがあってふわふわな布団は、生まれて初めてである。洗濯石鹸の良い匂いを嗅ぎながら、キリエは瞼をおろした。
「おやすみなさい、リアム」
「おやすみ、キリエ。……良い夢を」
リアムの密やかな呼吸音と、時々ページを捲る音。それらに耳を傾けながら、キリエはいつしか眠りの世界へと意識を落とし込んでいた。




