【4-25】変わらないもの
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「はぁ……」
──夜。話し合いが終了し、客人たちが帰り、軽めの夕食をとった後、キリエはセシルの手を借りながら湯浴みしていた。浴槽の中で膝を抱え、ついつい溜息を零してしまう。
今日は目まぐるしい一日だった。いや、途中までは穏やかな普段通りの時間だったのだ。祝宴が始まってからは次から次へと予期せぬ出来事の連続で慌ただしく、気づけば夜になっていた。まるで一瞬のうちに日が沈んでしまったような感覚である。
ウィスタリア中大陸三国代表および魔族保守派代表による話し合いの内容は難しく、キリエは理解が追いつかないところも多かった。特に、数字が関わることや戦略に関しては、後からリアムへ確認しなければならないと思っている。
とはいえ、大まかな結論については、皆が分かりやすく説明してくれたうえでキリエの意見も求めてくれたため、把握していた。
まず、イヴとアベルの身柄はサリバン邸にて預かることになっている。ウィスタリア王城にいてもらうほうが何かと手を借りやすいのだが、見るからに魔族である二人は目立つであろうし、城内の人間すべてに事情を話して受け入れてもらうのも難しい。一致団結すべきときなのだから、僅かな綻びも作りたくはない。そういった事情から、イヴとアベルには出歩くのを控えてもらい、サリバン邸で過ごしてもらうことにしたのだ。
使ってもらえる空室もあるし、彼らは自分のことは自分でしたい性質であるから使用人をつける必要も無く、現在の人員から増やさなくてもいいため十分に受け入れ可能だ。加えて、サリバン邸は王都郊外にあり、サリバン家は没落後は他家との付き合いもなく親戚もいないため来客も滅多に無い。そのうえ、王族や来賓客を迎えても不自然ではない。まさにうってつけの場所だった。
イヴとアベルは対カイン戦に備える手助けを色々としてくれるとのことで、彼らの助言を受けながら兵達の訓練内容を見直したり、王都内の住人たちの避難誘導法を考案していく予定だ。アベルは戦地に立つ者たちの助けとなる魔石を作り、イヴは特に危険な可能性が高い避難地域の民の守護のために魔法を使うべく今から魔力を体内に溜め込んでおくつもりらしい。
イヴたちがウィスタリアヘ渡ってきたことを知ったカインから何かしらの攻撃があるのではという懸念も上がったが、魔族の姉弟はそれを即座に否定した。なんでも、離れた地からウィスタリア内部へ手出しするには魔力の消費が大きく、年末の戦いのために今は温存しておきたいはずだから彼が動く可能性は限りなく低いとのことで、だからこそイヴたちもこの機を待ってウィスタリア中大陸へやってきたと云う。
囚われのマデリンについても、人質である以上は命を奪われることはないはずで、治癒力を高め痛み止めの効能もある魔石をこっそりと託してきたから、安心とは言えないまでも最悪の事態は免れているはずとのことだった。
「はぁ……」
「キリエ様、だいぶお疲れのご様子ですね」
キリエが何度目かも分からない溜息を零すと、優しい仕草で肩に湯をかけてくれているセシルが労わってくる。お疲れ様です、と柔らかな口調で言ってくれるセシルに対し、キリエは僅かな羞恥と後ろめたさを感じ、つい謝ってしまった。
「すみません……」
「えっ? どうされたんですか、キリエ様。キリエ様に謝罪していただく理由なんて、ひとつも思いつかないのですが」
「だって……、僕なんかより、セシルのほうが疲れているはずですから。僕はただ、みんなの話を聞いていただけで、他のみんなは一生懸命に意見を出したり働いたりしていて……、僕だけ何もしていないというか……」
困惑した様子で耳を傾けていたセシルだが、キリエの独白を聞くうちに再び優しい笑みを浮かべる。
「何もしていないだなんて、とんでもない。キリエ様がいらっしゃったからこそ、平和かつ円滑に話し合いができたのではないでしょうか。ボクは難しいことは分かりませんけど、傍で御給仕しながら、キリエ様の存在の大きさとありがたさを再確認しましたよ」
「いえ、そんな、僕なんて……、僕だって、みんなの話し合いについていけてない部分も多いのです」
丁寧に肌の手入れをしてくれるセシルに身を任せつつ、キリエはますます眉尻を下げた。
「僕は……、自分の立ち位置をきちんと保てているでしょうか」
「キリエ様の立ち位置……、ですか?」
「はい。……僕は、今はお腹が空いて困ることもありませんし、こうして綺麗なお湯を使わせていただけるばかりか、セシルや他のみんなに親切にお世話していただいたりして……、何不自由ない生活をさせていただいて。そんな風に大切にされている自分に慢心しているんじゃないかって、時々、不安になるのです」
キリエは成人するまで孤児であり、貧しい暮らしをしてきた。だからこそ、国内にまだ多い貧民を少しでも救えるように、皆に優しい国になるようにと願って微力ながら動いてきたのだ。
だが、キリエの権力は本人の気持ちが追い付かないままに大きくなる一方であり、立ち位置も随分と変わってきている。自分の立場で出来ることを頑張りたいという想いはあるし、初心を忘れているつもりもないが、己の軸がぶれていないかと不安に感じる時は決して少なくない。
「ルースで暮らしていた頃、国の片隅の田舎にいる貧民の声が偉い人たちに届かない苦しさを日々味わっていました。だからこそ、自分が王族の末端として活動できるのであれば、立場が弱い人たちの声に耳を傾けていきたいと意気込んでいたのです。……でも、王国内だけではなく隣国、更には海の向こうに広がっているという世界との関係まで考えなくてはいけなくなってきて、そうなると、守りたかった人たちとしっかり向き合えていないように感じてきて……、ままならないものですね」
自嘲気味に弱音を零すキリエの言葉をしっかりと聞きながら、セシルは優しく握るように手を揉み解してくる。凝り固まっている気持ちを和らげたいというかのような揉み動きを繰り返しながら、セシルは穏やかに言った。
「キリエ様。キリエ様は確かに、今は国内よりも国外へ御目を向けられる機会が多いのかもしれません。でもそれは、キリエ様が私利私欲や保身に走られているわけではなくて、ウィスタリア王国やお隣の国々で暮らしている一般国民を守るためのものでしょう? 難しいことは分かりませんが、それは今日の話し合いを聞いているだけのボクにも伝わってきましたし、十分に理解できました。要は、今はそれが最優先のときなんですよ、きっと」
「最優先の、とき……」
「はい。大きな危険が迫っているから、まずはそれに対処しなくてはならないということでしょう。そして、その危機が去っていったら、キリエ様はまた国内の貧しい民のために御活躍なされるはずです。ジェイデン陛下に御進言されたり、孤児院や過疎地を御訪問されたり、そういう地道な御活動に励まれるのではないでしょうか」
「それはもちろん、したいです。僕、本当はもっとそういうことをしたくて……」
自分の気持ちが伝わった喜びで頬を紅潮させている青年を微笑ましそうに見つめながら、セシルはその外見の印象よりもずっと大人びた眼差しで頷く。
「キリエ様の御気持ちは、国民も分かっているはずです。聖なる銀月は、どこへ眼差しを向けていたとしても、立場の弱い人々を守るために奮闘してくださっていることには変わりない、と」
「セシル……」
「この一年、ボクは御傍でお世話をさせていただいていますが、キリエ様は初めてこのお屋敷にいらっしゃったときから信念は変わられていないと感じていますよ。確かに、孤児として生きていらっしゃったときと比べれば恵まれた生活を送られておられるでしょうが、王族の方とは思えない質素な暮らしであるのも事実です。大丈夫ですよ、キリエ様。キリエ様は身分の差に捉われず、小さなことにも感謝の気持ちを忘れない、その御心には何の変わりもありません」
もっともこの一年で良い御成長も沢山ありましたが、と言い添えながら笑うセシルは、明るい表情でキリエの手を取った。
「さぁ、キリエ様。そろそろ上がりましょうか。お湯も冷めてきましたし、御風邪を召されたら大変です。いつもより時間が掛かってしまったので、きっとリアム様も心配されています」
「はい。……セシル、いつもありがとうございます」
入浴の世話のことだけではなく、話を聞いてくれたことや、励ましてくれたこと、日々支えてくれていること。それら全てへの感謝の意を込めた「ありがとう」だったのだが、メイド服姿のフットマンは正しく解釈して受け取ってくれたらしい。誇らしげに微笑んだ彼は、返答の代わりに深々と最敬礼の姿勢で腰を折ってみせたのだった。




