【1-12】ともだち
「初めて聖書の内容を知ったとき、子どもながら衝撃を受けました。こんなにも嘘ばかり書いてあるものが尊いと言われているなんて、すごいなぁと。そう思って、心が揺さぶられました。なかなか罪深い子どもでしょう?」
当時を思い出して苦笑するキリエに対し、リアムは口が半開きのまま硬直している。よほどの驚愕だったのだろう。
「隣人を自分のように愛すとか、神の前では皆が平等だとか、あの頃の僕にとってはそれは全て嘘ばかり綺麗ごとだと思っていたのです。だって、もしそれが真実で皆がそうしているのなら、この世界はもっと優しいはずだから。でも、そうじゃない。どうにもならない空腹を耐えながら、僕は『自分は絶対に嘘をつかない』と心に決めました。……実に可愛くない子どもです」
「……いいえ、むしろこれまでの境遇の中でよく、こんなにも純朴で素直な人になられたものだと感服いたします。孤児の生活がどんなに過酷なものか、父からよく聞かされておりましたから」
キリエは軽く首を振り、窓の外の風景を眺め始める。リアムの真摯な眼差しを受け入れるのが、少し心苦しくなったのだ。
「あの頃の僕は聖書の言葉を疑うばかりか、この髪と目の色が嫌で嫌でたまらなくて、こんな色をお与えになった神を呪っていたのです。皆が悪意なく妖精人のようだと言ってくるたびに、お前は人間じゃないと言われているようで嫌だった。──そんなとき、あの十年前の出来事があったのです」
「確かに、あのときも貴方は妖精人扱いをされて傷ついていらっしゃいましたね。もっとも、彼女──エステルにはそんなつもりはなかったのでしょうが」
「もちろん、あの子なりの優しさです。……でも、優しさが棘になってしまうこともありますよね。そして、その棘を抜いてくれたのがリアムさんだったのです」
「私が、……あのときに?」
ちらりと振り向いてみると、騎士は相変わらずの実直さでキリエを見ていた。その顔に軽蔑の色は全く無く、真面目に耳を傾けてくれていたらしい。
「僕はあのとき、もう助からないと思いました。やっぱり神様なんていないんだ、と絶望もしました。そこに駆けつけてくれたのがリアムさんで、妖精人のようだと言われるのを気に病んでいた心を救ってくれたのもあなたでした。──リアムさんはきっと神が遣わしてくださった英雄なんだ、と感動しました」
「いえ、私は当然のことをしただけです」
「当然、ではないですよね。あのとき、リアムさん以外の騎士たちは、孤児がいなくなったくらいで何を大げさなと笑っていたそうです。それが世の普通なのでしょう。……でも、あなたは何の見返りもなく孤児の命を助け、心を救ってくれました。立派な英雄です。──あのとき、あなたと出会えていなかったら、僕はきっと今でも神へ信仰心を捧げられていませんでした。リアムさんのおかげなんです。ありがとうございます」
「な、何をなさっておいでですかっ。頭を、頭を上げてくださいキリエ様!」
キリエが居住まいを正して感謝の気持ちと共に頭を下げると、リアムは照れと焦りが混ざった顔で無意味に首を振る。だんだんと彼の素の部分が見え隠れし始めた気がして、キリエはここで話を戻すことにした。
「ところで、リアムさん」
「はい、なんでしょうか」
「他にも大切な話が色々とあると思いますし、僕の友人になってほしいという件について、そろそろ明確なお返事をいただいてもよろしいですか?」
ここでその話題に戻るのかと目を瞠り、リアムの表情が引き締められる。キリエも真剣な気持ちを込めた言葉を差し出した。
「サリバン家のことを知っても、それであなたが王都でどんな目を向けられているのかを分かっても、それでも僕はリアムさんは英雄だと思っています」
「キリエ様……」
「本当は、マルティヌス教会の皆のことも堂々と誇らしく家族であり友達であると言いたいです。それが許されるような、優しい王国になってほしい。そのために僕は、……正直なところ、自分に何が出来るのかさっぱり分からないのですけど、精一杯に頑張ろうと思います。そんな不束者の僕ですが、友人として王都で見守ってくれませんか?」
よろしくお願いします、と差し出される白い手を、リアムがじっと見る。藍紫の瞳の奥では、決意が固まっているように思えた。
「──差し出がましく身の程をわきまえない申し出になってしまいますが、いくつか条件を提示させていただいてもよろしいでしょうか?」
堅苦しい問い掛けを受け、キリエは差し出していた手を一度引っ込めた。
「はい。どんな条件ですか?」
「その前に確認させてください。貴方の友人としての私には、敬語を用いず普段のままの言動をせよというご希望なのですね?」
「はい。あっ、様も禁止です。キリエ、と呼び捨てにしてくださいね」
なるほど、と大真面目に頷いたリアムは、大仰な咳ばらいをしてから条件を提示し始める。
「では、まずひとつ。いかに友人であろうとも、一介の騎士が次期国王候補に気安く接しているのは周囲の目を考えると良いことではありません。従って、友人関係は秘密のものとし、キリエ様と私が二人きりのときのみ隷属関係を解消するものとします」
「秘密のお友達! なんだかワクワクする響きで素敵ですね」
無邪気に喜ぶキリエに若干たじろぐリアムだったが、咳ばらいを追加して続きを語った。
「そして、貴方も私を『リアムさん』と呼ぶのはおやめください。これは友人であってもなくても、いつでもです。その丁寧なお話の仕方はもう染み付いていらっしゃるでしょうし、問題とも言い難いので目を瞑りますが……、下々の者たちを呼び捨てることに慣れていってください」
「尊敬している人を呼び捨てにするって勇気が入りますが、頑張ってみます!」
「……まったく同じ言葉をお返ししたいのが、私の今の心境です」
はぁ、と溜息をつくリアムは、だいぶ地を見せ始めている。腹を括ったのかもしれない。
「条件は、それだけですか?」
「──はい、以上です」
騎士が恭しく頷くと、キリエは顔を輝かせ、もう一度手を差し出した。今日一番の満面の笑みだ。
「リアム、僕の友人になってください!」
無垢な笑顔に対し眩しそうに目を細め、穏やかに笑ったリアムは、キリエとの握手にそっと応じてくれる。
「……ああ。よろしく頼む、キリエ」
従者としての顔を捨てたリアムは、十年前から憧れていた英雄そのもので、やっと「彼」に会うことが出来たのだとキリエの胸が熱くなった。
自分を変えてくれたこの人と一緒なら、きっとエステルとの約束を果たし、良い結果へ行ける。──そんな予感が湧き上がり、体中の血潮が沸き立つ思いだ。
「ありがとうございます、リアム! とても嬉しいです。僕、王都でも頑張れるような気がしてきました」
「言っておくが、これからお前が立つことになる世界はとても重く苦しいものだ。本当に頑張れるのか? 優しい王国を目指して行けるか?」
「君がいてくれるなら、きっと大丈夫です。だって、神様が出会わせてくれた英雄なんですから」
再会してからずっと昏く沈んでいた銀色の瞳が、今は強く煌めいている。その輝きを覗き込みながら、夜霧の騎士は力強く頷いた。
「お前が目指すような優しい王国の姿を、俺も見てみたい。──俺の全てを懸けて、お前を支えよう」




