【2-95】奇跡的な希望
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中間討論会が閉会してもジェイデンとライアンの熱は引かず、彼らは茶話室で非公式の討論を交わすらしい。キリエは顔色が優れないため、心配したリアムの計らいにより、大広間の隣にある控室で休憩することになった。
茶や菓子を届けてくれた使用人が退室し、二人きりになると、リアムは側近としてではなく素の表情で顔を覗き込んでくる。
「キリエ、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。心配させてしまって、すみません」
「謝らなくていい。とりあえず気持ちを落ち着けて、少し休もう」
リアムは、ポットから茶を注いで手渡してくれた。それを受け取ったキリエは一口飲み、小さな溜息を零す。
「リアム。よければ、君も座りませんか?」
「ありがとう。だが、角度によっては、もっと上の階から此処を覗き見れる。誰かに見られてしまうかもしれないから、遠慮しておこう」
「そうですか……。早く帰らないと、君が休まらないですね」
「俺のことは気にしなくていい。とりあえず、キリエが一息ついてくれ。……顔色が悪い。ライアン様の論述が辛かったか?」
いつもの癖でキリエの頭を撫でようと伸ばしかけた手をさりげなく戻しつつ、リアムが気遣ってきた。キリエは、素直に小さく頷く。
「……分かっているつもりでした。貧しい生活の実情なんて、豊かな暮らしを送っている人にはなかなか理解してもらえないということを。でも、色々と事情があるとはいえ貴族生まれには変わりないリアムも、ずっと王子様だったジェイデンも、僕の話に真剣に耳を傾けてくれました。ジャスミンも慈善活動に強い関心をもっているようですし、最終的にはマデリンだって……、だから、ライアンにも分かってもらえるんじゃないかと、僕は心のどこかで安易に思ってしまっていたのかもしれません」
肩を落とすキリエに対し、リアムは静かに首を振った。
「キリエが落ち込むことはない。以前も言った通り、ライアン様はもともと極端に選民思考の強い御方だ。一般の富裕層の人間以上に、キリエの主張が伝わりにくい相手なんだ。キリエの話し方が悪かったわけではないし、お前の考えが甘いわけでもない」
「そうでしょうか……」
「そうだとも。あのマデリン様でさえ、キリエの言葉に心を動かされたんだ。こちらにはジェイデン様もついている。ジャスミン様だって、キリエが目指す優しい国づくりに惹かれていらっしゃる。時間は掛かるかもしれないが、いつかきっと、ライアン様とも歩み寄れるはずだ」
リアムの声音は穏やかで落ち着いたものだが、キリエの心を熱く優しく励ましてくれる。彼の言葉に頷き、キリエは微笑を浮かべた。
「そうですね。僕は、限界まで頑張るってエステルと約束しました。こんなことくらいで、めげてちゃ駄目ですよね」
「その意気だ、キリエ。だが、我慢をしすぎるのはよくない。弱音や愚痴を吐き出すのも、大切なことだ。胸の内にある鬱憤を出した後で、また元気になればいい。俺には何をぶつけてくれても構わないから、一人で抱え込まないでくれ」
「ありがとうございます、リアム。……でも、君は僕を甘やかしすぎです。もっと厳しく接していただいても大丈夫ですよ。僕にはまだまだ至らない部分がたくさんあるのですから」
キリエが苦笑すると、リアムはきょとんとした顔で目を瞬かせる。
「俺は、今でも十分に厳しくしているつもりなんだが」
「えっ!? いえいえ、リアムは僕に甘いですよ! 甘すぎます。飴玉よりも甘いです」
「そうだろうか……、俺としては、なかなか思うように甘やかしてやれなくて歯がゆく感じていたんだがな」
リアムは冗談で言っているわけではなさそうだ。キリエはカップをテーブルへ置きながら、驚きと呆れが混ざった表情を浮かべた。
「僕への態度が厳しいのなら、君のエドへの態度はどうなるのですか!? たまにですけど、結構ひどいことを言ってますよね!?」
「エドはまぁ、エドだからな。エドもキリエも大切な家族だが、やっぱりキリエが特別になってしまうのは仕方ない」
「……それは、僕が王子だから。……ですか?」
心に湧き上がった小さなモヤモヤを口に出したキリエは、少し不安そうな顔になる。その微妙な感情を察したリアムは跪き、キリエと視線を合わせて柔らかく微笑んだ。
「王子だからというよりも、主君だからだな。それも確かに、キリエが特別だという理由のひとつだ。尊敬する主君であり、心を許せる友であり、苦楽を共にする家族でもある。そして、変な言い方かもしれないが、俺が守ることに成功している大切な存在なんだ」
「守ることに成功……?」
確かに、キリエはリアムに守られている。十年前も、今も。
キリエは彼の守護に対し当然ながら感謝をしているが、先程の口調にはリアムからも感謝に近い心情が滲み出ていた。
「俺は、守りたかったものの大半を守れなかった。両親も、婚約者も。──新たに守りたい者たちは増えていったが、きちんと守っていけるのかが不安だった。それが引っかかって、俺はずっと立ち直れずにいた。……そんなとき、キリエと再会したんだ。マルティヌス教会で、成長したお前やエステルの姿を見たとき、どんなに嬉しかったか分かるか? 俺がかつて助けた子どもたちが、生きて目の前に立っている。それは、あのときの俺にとっては奇跡的な希望だったんだ」
藍紫の瞳が、強い輝きを放ちながら銀眼を射抜いてくる。小さな不安など跡形もなく溶かしてしまいそうな、熱い眼差しだ。
「勿論、キリエたちが成長するまで大切に育てたのは神父様やシスターの方々だろう。それは重々わかっているが、それでも、感慨深かったんだ。没落する前の自分が守った存在がまだ生きていてくれて、そしてキリエは俺を傍に置いてくれた。お前を守らせてくれているんだ。これがどんなに喜ばしいことなのか、……この気持ちはきっと俺にしか分からないんだろうな」
「リアム……」
「主君として、友として、家族として、希望として。俺にとってのキリエは、何重もの意味で大切な唯一無二の存在なんだ。……だから、本当は、何の悩みも抱かなくていいくらい幸せに生きていてほしい。まだまだ甘やかし足りないんだ」
リアムはキリエの手を取り、甲へ額を押し当ててくる。それは、騎士が主君への忠誠と敬愛を示す行為だ。
キリエはリアムの肩をぽんぽんと撫でるように叩き、ふわりと笑った。
「リアム。僕は今、とても幸せです。もう、幸せすぎるくらいに幸せなのです。……だから、君は僕ではなくて、自分自身をもっと甘やかしてください」
「……まったく、俺の主は甘すぎる」
「僕の側近騎士には負けますよ」
二人が目を合わせ、声を上げて笑いあった──そのとき。不意に、ノックの音が響いた。




