1. 「表現の自由」を再構成する熱意や野心はあったが、愛はなかったフランケンシュタイン/津田大介氏
〝呪われたる造り主よ、おまえすらも嫌悪に目を背けるような怪物を、何ゆえに造り上げたのだ?〟
メアリー・シェリー 『フランケンシュタイン』(新潮文庫 芹澤恵訳)から
「愛もなく、なぜ造った」
1814年、メアリー・シェリーによって生を受けた〝怪物〟、『フランケンシュタイン または現代のプロメテウス』は、後世の多くの創作者たちに影響を与えた。本書に着想を得た映像作品も多い。1994年の映画『フランケンシュタイン』もその一つだ。
フランシス・フォード・コッポラ、ケネス・ブラナー、ロバート・デ・ニーロによる本作は、それ以前のホラー映画色を排し、細部は異なるものの、大筋では原作に沿って作られた。
「愛もなく、なぜ造った」は、日本での宣伝用文言だ。
原作には同じ言葉はないようだが、怪物はフランケンシュタインに似たような問いを投げかけている。
本作の本質を現した言葉だと思う。
フランケンシュタインには、生命を作り出す熱意も野心も、そして能力もあった。
しかし、その創造物への愛はなかった。
だから、自らの造り上げた(正確には再構成し、命を与えた)〝それ〟が、命の兆候を見せたとたんに逃亡してしまう。二年の歳月を、生命の再創造に費やしてきたのに、いざ〝それ〟を目の前にすると、無情にも見捨ててしまう。
そして、この創造主による追放は、〝それ〟を怪物にしてしまった。
愛をもって大切に育てれば、高潔な魂となる可能性もあったのに、超人的な運動能力と優れた知性を兼ね備えた、人類の未来の希望となったかもしれないのに、無責任な〝神〟に見捨てられたそれは、「醜悪な悪魔」へと変わっていく。
「現代のフランケンシュタイン」
「あいちトリエンナーレ」の展示物の一つ、「表現の不自由展・その後」が、開幕3日で中止となった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190804-00010001-sp_ctv-l23
芸術祭実行委員会会長の大村秀章愛知県知事と、津田大介芸術祭監督による判断らしい。
「表現の不自由展・その後」には、開幕に前後して抗議が殺到した。
河村たかし名古屋市長をはじめとする、政治家からの圧力ともとられかねない発言、保守陣営からの必ずしも適切とも思えない非難、そして、一般の人たちによる電話やメールでの抗議。更にはSNS上での罵詈雑言。
その中には、「ガソリン携行缶をもってお邪魔する」などの脅迫もあった。運営側は安全上の理由からやむなく展示を中止した、という。
だが、理由はどうあれ、本展示は見捨てられた。いや、本展示やこの背景、そして批判や擁護意見を含む「表現の自由」そのものが見捨てられた。
「無責任な怒り」
中止の決定に際しては、様々な批判があった。その中には、いわゆるリベラルからの批判もある。
「表現の不自由展・その後」実行委員会の岡本有佳氏からは、「準備不足」に対する非難があった。
https://dot.asahi.com/aera/2019080900118.html?page=1
ジャーナリストの江川紹子氏からは、「認識の甘さ」を指摘された。
https://twitter.com/amneris84/status/1157616658518663168
更に各方面から、法律、行政、美術、ビジネスなどいろいろな観点での批判や検証がなされた。
軽率な発言の動画が流れたり、真偽不詳の情報が飛び交ったりして、事態がますます混沌としてきた中、約二週間後、津田芸術監督が「謝罪文」を公開した。
https://medium.com/@tsuda/%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A1%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC2019-%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%81%AE%E4%B8%8D%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%B1%95-%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BE%8C-%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8A%E8%A9%AB%E3%81%B3%E3%81%A8%E5%A0%B1%E5%91%8A-3230d38ff0bc
末弟のウィリアムが殺され、家族同然のジュスティーヌが冤罪により死刑に処せられても、フランケンシュタインは責任逃れに終始した。そして自らの過ちを棚に上げ、〝怪物〟に対する身勝手な怒りを増幅させていく。
21世紀のフランケンシュタインも「表現の自由」という怪物を「生み出し」、そして見捨てた。そして今、〝それ〟は憎悪や怒りを取り込み、醜悪な怪物となりつつある。
2世紀前の怪物は、自身の醜さを呪い、北極の闇に消えることを選んだ。
利用されることはあっても愛されているようには見えない現代の怪物も、このまま闇に飲み込まれるのだろうか。
それとも、無垢な愛に触れ、〝それ〟が本来持っていたはずの美しい魂が、憎悪や醜さを駆逐する時が来るのだろうか。