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古神幻想  作者: 鈴本恭一
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エピローグ:あいぞう



 そして拭い取られるかのように闇が消え、明るくなる。








 ヒーエは庭園にいた。







 雲ひとつない真っ青な空、緑色の芝生。職人がよく手入れをしたであろう生け垣に囲まれた広い空間に、たくさんの人々が集まっている。



 庭園に用意された白い食卓にはいくつもの料理が並び、身なりよく正装した紳士や淑女が椅子に腰掛けていた。彼らの間を何人もの給仕が手慣れた動きですり抜けていく。






 そのただ中に立っていたヒーエは、自分が裸足でいることに気付く。あの粗末な靴はどこかに消えてしまった。







 そしてこれほど陽気な日の光を浴びながら、その足からは影がまったく伸びていない。









 ヒーエは、朗らかに談笑するある卓へ行き、そこに声を掛ける。だが全く気付いて貰えない。少しして、彼らの体に触る。やはり、ヒーエに気付く様子はなかった。






 ヒーエはあたりを見回す。すると、食卓のひとつに見知った顔の男を見つける。ヒーエの村の、村長だ。





 ヒーエは彼のもとに近づき、声を掛けるが、反応はなかった。



 しかしヒーエには、彼らの話す言葉がきちんと聞き取ることが出来る。彼らの話を聞いていると、どうやらヒーエの村はある時期を境に、豊作や子宝に恵まれ、村の規模を大きくせざるを得ないのだとか。





「いやまったくの偶然なのだとは思いますが、ある娘が亡くなってから、村では良いこと尽くめなのです。いえ、その娘が疫病神だったと言っているわけではありません。境になるある時期、というものを探すとしたら、という話です」





 村長はその場の人々にそう話していた。





 自分のことだ、とヒーエは思う。そして、自分は死んだのだと気付く。だから、誰にも見られないし、誰からも応えられない。






 ヒーエは、しかしおかしい、とも思った。



 自分が死んだのであれば、今この場にいる自分はいわゆる幽霊だ。するとそれは森の神の御許にいるはずだ。






 なぜ、こんな場所にいるのだろう。そもそもここはどこだろう。



 ヒーエはそう思いながらあたりを再び見回した。





 彼女がそうすると、大きな歓声が涌き上がる。その場にいた人々の視線が、一方へ向けられた。ヒーエもそちらを見やる。




 それは聖堂だった。大きくはないが、品の良い装飾があしらわれた落ち着きのある建物だ。その聖堂の厚い扉が両開きに放たれる。そこから、白い衣装を纏った男女が現れる。





 無数の拍手が巻き上がる。儀礼用の火薬が炸裂する音、色紙による紙吹雪、演奏隊の弦楽。






 それらの中を、彼と彼女は腕を組んで進み出た。






 ラサギと、ホイナだった。ヒーエの知っている彼らより年齢を重ね、すっかり大人になっていた。






 祝福の言葉がいくつも彼らに与えられる。ラサギとホイナはそれらへ手を振り、笑って応えた。




 笑っていた。






 ここは結婚式場。




 ラサギとホイナの、結婚式だった。












「……」





 ヒーエは、微笑む彼と彼女を見る。ヒーエと目が合うことはない。



 彼女はホイナを見ていた。





 この朗らかな快晴そのもののような、幸せに眩しい笑顔を浮かべたホイナに、ヒーエは疑問を抱く。






 ホイナは、神様を信じていないと言った。では、何が彼女の幸せを成就させたのだろう。







 自分は輝きの霧に願い、森の神を創った。だから森の神が村に豊穣を与え、無病と息災を施した。




 しかし、ホイナは神など関係なく幸せになっていた。







 ヒーエとは違う。生と死に神が必要であったヒーエとは。








 自分とは違う。










 生前、ヒーエはホイナに何度もそう思った。豊かな町からきた人間であるホイナが、自分と同じわけはない。生まれた時から文字に囲まれた彼女が、ヒーエと同じはずはない。




 しかし、神だけは互いに生まれた時から傍らにあったはずだ、とヒーエは思った。






 だがホイナは神を信じなかった。ヒーエは信じた。信じたヒーエは、裏切られた。信じてなかったホイナは、幸せになった。






 ホイナは笑っていた。





 神への信仰も教義も無関係に。



 ヒーエの生も死も、無関係に。







 笑っていた。





「……」





 ヒーエは足を踏み出す。



 向かった先は、花婿と花嫁が座る席だ。そこに、かれらはいた。






 花嫁姿に着飾ったホイナは、とてもきれいだ、とヒーエは感じた。きれいな子だと思っていたが、今のホイナは無数の祝福と幸福で、内側から輝きが溢れ出ている。





 ヒーエが見たこともないほど、そのときのホイナは美しかった。







 そんなホイナの目の前まで近付いたが、やはり、ヒーエには誰も気付かない。





「……」





 そのときの感情を表現する言葉を、ヒーエは知らなかった。ホイナも、教えてくれなかった。





 だがその感情がヒーエの肉体を動かし、そして行動に至らせた。

























 ヒーエはおもむろに、ホイナの首を締め上げた。























 指が、彼女の白い喉に食い込む。力を込めた。






 その力の入り具合の大きさから、ヒーエは自分が今、何と呼ばれるものであるかを知った。




 怨霊だ。先ほどの父親と同じ。







 父親のような恨み節は出てこなかった。どういう論理が、今の自分の気持ちを作り上げているのか、ヒーエには分からなかった。



 が、きっとそれはとてつもなく不条理で自分勝手な種類のものであることは理解できた。そういう気持ちを抱く相手はホイナしかいないのだ、とヒーエは思った。







 自分は、ラサギとホイナの結婚を願っていたはずだ。



 なのに、今、自分は彼らを祝えず、呪っている。






 この矛盾はどうして生まれたのだろう。



 ヒーエには、分からなかった。








「――……」





 花嫁の身体が、糸の切れた操り人形のようにがくんとくずおれる。




 ヒーエは手を離した。






 式場が騒然となる。ラサギが駆け寄り、村長たちもこちらへ来ていた。






 だがヒーエはもう彼らを見ていなかった。倒れ伏すホイナへも視線を向けていない。





 彼女は虚空を見ていた。




 いや、ただうつろに目を向けているだけだ。何も見ていない。







 ヒーエは、泣いていた。






 そして自分の目から、そういった雫が滴っていたことに、ずいぶんしてから気付いた。








 名状しがたいあの気持ちが、ヒーエの中で爆発する。






 彼女は、果てしなく青く広い空に向かって吼えた。その咆哮は、どこまでも空しかった。












**** **** **** **** **** ****







 今度は、川辺にいた。






 見たことのない川だ。対岸が遠くに見える。しかし薄い煙霧がかかり、どれほど距離があるのかははっきり分からなかった。





 ヒーエの手元には、誰かからの文が記された一枚の紙。ごろごろと遠雷が聞こえてきた。





『雲は申しております。彼の式場へ霹靂を落してやろうか、と』




「……」






 ヒーエは頭上を仰ぐ。天は灰色の曇り空で、濃淡の波が空に走っていた。





 上に向けていた視線を下げ、周りを見る。川の反対側は灌木がまばらに生える野原で、その先はやはり霞がかかっていて良く見えない。




 再び、川を見る。川面にヒーエの姿が映った。





「……ホイナは、なんで神様を信じていなかったんだろう」





 川の流れる音と気配が、ヒーエをひそやかに包む。



 この包まれる感覚を、自分はホイナと共有していた。しかし、同じ場所にいて同じものを感じていたが、彼女と自分は異なっていた。





「町で育つと、みんな、ホイナみたいに神様を信じないようになるの? それともホイナが特別だったの?」





 ヒーエは今になって、どうしてホイナにそのことを聞かなかったのだろう、と思った。






 ホイナは何を見て育ったのか。




 周りには何があったのか。何を見据えていたのか。




 彼女の口から聞いた気がする。けれど、真剣にそれを捉えたことはなかった。ヒーエの神とその教義、死後には関係のないことだからだ。









 しかし、彼女はふと思った。





「なんで私は神様を信じているの?」









 それは、思うはずがないことだった。そのはずだったが、思ってしまった。今際になって。



 もう霧に願った。森の神を創ることを。そのことに後悔はない。





 だがそれとは別のところで、先ほどの疑問も抱いてしまった。



 ホイナはその疑問の答えを知っているのだろうか。






 ホイナに、聞きたかった。



 けれどもう彼女には会えない。






 怨霊となって彼女を呪い殺すことも、雲に願って雷を落としてもらうことも出来るだろう。



 しかし、会うことは出来ない。ヒーエは死んでいるのだから。







 と、手に持っていた紙が朽ちて崩れる。しかしいつの間にか別の手に、新しい紙が持たされていた。






『川が申しております。貴様の魂を別の者へ作り変えてやろうか、と』




「……作り変える?」




『川は、貴方を生まれ変わらせて現世へ遣わせることが出来ます。別の人間になるので蘇るわけではありませんが、貴方の記憶を持たせることはできます』




「代償は?」






 彼女が聞くと、その紙に書かれた文面が変わる。





『生前、主や川からの所用を果たすこと。その死後、川へ仕えること』



「私は死んだら、森の神様のところにいくことになってる」





 また文章が変わった。





『双方に仕えれば良い、と川は申しております』




「……」





 ヒーエは考える。



 だが、何について考えればいいのかまとまらなかった。




 川からの提案が教義に反さないことか、それとも生まれ変わりというものがどのようなものなのか、ホイナに会えるのなら何を聞きたいのか、そもそもホイナはヒーエのことを憶えているのか。







 どれほど時が経ったのか。ヒーエは考えるだけ考えた。時間はいつまでもあるような気がした。事実、彼女の応えを急かす者はいなかった。時間の外にいるのだと思ったが、それは些末なことだった。



 そうしているうちに、彼女は川を見た。ヒーエは訊ねる。





「生まれ変わるには、どうすればいいの?」




 手元の紙を見る。予想通り、文面が変化していた。その返答は短かった。





『川の中へ身を任せ、願いなさい』







 彼女は意を決し、目の前の川へ足を踏み入れる。






 水は驚くほど冷たかった。皮膚を裂いて骨の髄まで冷気を染み込ませようとしている、とヒーエは感じた。痛いほど冷たい川の中へ進む。川の中の傾斜は緩やかで、水位が次第にヒーエの体の上部へ移動していく。






 そして、水面はヒーエの口元までやってきた。体の感覚はとうにない。





 ヒーエは歩みを一拍だけ止め、目を瞑る。再び前へ進んだ。全身を川に潜らせる。









 川の中には、流れがあった。その流れがヒーエの感覚を全て奪い取る。奪い取ったのは感覚だけでなく、肉体の奥に隠されたもっと心霊的なものも含まれていたのかもしれないが、ヒーエにはもう分からなかった。









 ヒーエが思うことは、願うことだけだ。












 また、ホイナに会えますように。













 それがヒーエの、本当の、最期だった。












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